洗礼
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洗礼 (せんれい,希:βάπτισμα) はキリスト教の入信に際して、全身を水に浸す、あるいはそれを模し簡略化した頭部に水を触れさせる儀式である。
洗礼は一般に、生涯に一度だけの儀式であることから転じて、初体験、とりわけ「人生において一度だけ経験せねばならぬ、ほぼ一方的に他者からもたらされる、大きな体験」などの比喩表現としても使われる。
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[編集] 概要
洗礼 (せんれい,希:βάπτισμα) は、『新約聖書・福音書』において、バプティスマのヨハネがヨルダン川にて行っていた「浄化儀式」の日本語訳として造られた言葉である。動詞としての「洗礼を施す」は、ギリシア語で「バプティゼイン βαπτίζειν 」と言い、「バプティスマ」という言葉は、ここから来ている。
これと同様の水による浄化儀式は、世界中の文化で見られ、バプティスマのヨハネが行っていた洗礼も、ユダヤ教に存在する儀式であり、また紀元1世紀から2、3世紀にかけて、ヨハネ以外にも、エッセネ派などに代表される「洗礼教団」がパレスティナやメソポタミアなどに多数存在し、洗礼の儀式を行っていたことが知られている。
[編集] キリスト教における洗礼
[編集] 概説
キリスト教は洗礼の根拠を『福音書』に求める。ほとんどの教会で洗礼をミュステリオン(ギリシア語、ラテン語「サクラメント」、秘跡(カトリック)または機密(正教会)、あるいは聖礼典(プロテスタント))と認める。執行者は一般に司祭・牧師などの聖職者・教職者である。
洗礼を通してキリストの贖罪の功績に与ることにより、原罪および、それまでに犯したすべての自罪が赦されるとされている。そのため、古代には洗礼後に罪を犯すことを嫌い(あるいは逆にキリスト教徒としての清い生活を求められることを避けるため)、死の直前に洗礼を受ける信者が多かったが、古代末期から中世にかけて、魂に保護が与えられることを望み、幼児のうちから洗礼を施す習慣が出来た。
[編集] 洗礼執行の方式
執行形態は主に浸礼(全身を水に浸す)・潅水礼(頭部に水を注ぐ)・滴礼(手を濡らし、頭に押し付けて水に沈める所作を真似る)の三種類である。浸礼が原初の形態であり、潅水礼も滴礼もそれを模した簡略形態であることは、それらを執行している教会でも認識されている。 全ての方式を認める教会と浸礼のみを認める教会がある。この相違は、主に新約聖書における洗礼の記事の解釈の相違および洗礼の象徴的意義の神学的解釈に基づく、と説明される。
[編集] 幼児洗礼
教会の信仰に基づき、乳児や児童に授けられる洗礼を幼児洗礼または小児洗礼という。
幼児洗礼は、キリスト教初期からすでに行なわれ、今日まで行なわれ続けてきた。
キリスト者の家庭に生まれた幼子はすでにキリストの教会の肢の一つであると理解され、神の民の肢として理解される。
フルドリッヒ・ツヴィングリは、幼児洗礼は、神の民の肢として生まれた子供に対して、教会が責任を持つしるしであると理解した。
ジャン・カルヴァンも、キリスト者の幼子は、すでにキリストの教会の生きた肢であると考え、このキリスト者の幼子も、神の民の中に生まれたのであるから、洗礼を妨げてはならないと考える。
マルティン・ルターは、幼児洗礼は「神の賜物」であって、完全に受動的に受ける聖霊の働きであると理解した。洗礼によって受ける聖霊の働き (神が幼子のうちに初めて下さる御霊の働き) によって、心からの真実な信仰の告白に導かれると理解した。
幼児洗礼が古代教会において、明らかな事実としてなされたことの理由は、「神ご自身が洗礼を通して行為しておられる」という理解によっていた。 また幼子は弱く、神の恵みに委ねることなくしては成長できないと考えられていた。
幼児洗礼は、神が、洗礼を通して幼子をあわれみ、洗礼によってキリストにゆだねられ、闇の支配から聖霊によっていのちへ移されるその確信において、洗礼がほどこされたのである。
[編集] 洗礼の相互承認
一般に、各教会は、教派が異なる教会の洗礼も一定の条件で有効であると認める。逆にいえばある教派の洗礼が別の教派で認められないとき、後者の教会は前者の構成員を完全な意味でのキリスト教徒として認めないということである。
相互承認の対称性が破れるケースには、正統教義とされる三位一体の理解が共有できない教会間の移動、三位一体の名に基づかない洗礼(例:「父と子と聖霊の名において」対「イエスの名において」)、一回性のない洗礼、幼児洗礼や潅水礼・滴礼を認めない教派による拒絶などがあり、その場合は再度その教派の流儀に合った洗礼が行われる。
他の教派での洗礼が有効であるといっても、そのときに付けられた洗礼名は必ずしも改宗後も用いられるわけではない。教会によって対応は異なるものの、以前の洗礼名が改宗先の教会では聖人とみなされていない者から採られた場合、改名は必須となるケースが多い。
[編集] 各教派の洗礼に関する見解
[編集] 西方教会
[編集] ローマ・カトリック
生後すぐの潅水礼による幼児洗礼が基本。洗礼の際、特定の聖人または天使の名を受ける事がある。この名を洗礼名、霊名(れいめい)などと呼ぶ。未信者が重篤で聖職者の手配が間に合わないなどの場合、一般信徒が洗礼を執り行うことを認めている。ただし、あくまで緊急の場合に限られ、必ずただちに教会に報告しなければならない。緊急洗礼ともいう。
[編集] プロテスタント
執行の方式は教会による。ルーテル教会、改革派、聖公会など宗教改革期に成立し国教を経験した教派は、幼児洗礼も行う。日本基督教団においては幼児洗礼を執行する教会と、しない教会が両立する。
[編集] バプテスト教会
洗礼に関して多くの特徴的主張をもつプロテスタント教会の一つ教派。 まず、洗礼方式は原則として浸礼(全身を洗礼水槽に沈める)のみを行う。その理由として、「イエス・キリストが洗礼者ヨハネに受けた方式であること」、「イエス・キリストの死と葬り、復活においてキリストと一つになることを象徴する一番ふさわしい形式であること」などが挙げられている。 原語の意味は「洗う」ではなく「浸(ひた)す」あるいは「沈める」であるとの主張から、洗礼といわず浸礼、あるいはギリシア語の音訳であるバプテスマの語を用いる。 幼児洗礼を認めず、本人の信仰に基づく成人洗礼のみを執行する。ただし、本人が信仰を自覚することができれば小学生の年齢でも洗礼を施すことがある。つまり、信仰の告白としての洗礼を主張し、恵の手段としての洗礼「神の行為」としての洗礼理解は主眼とされない。 この浸礼にこだわるあまり、他のキリスト教会からバプテスト教会に転入する際には、浸礼でない洗礼を受けている場合、再度洗礼を施すことがある。
[編集] 洗礼を行わない教派
救世軍、無教会など洗礼を行わない団体も存在する。救世軍の入隊式は洗礼に準ずるものとして扱われることが多いが、無教会集会のメンバーはキリスト教徒とみなされない事も多い。
[編集] 東方教会
東方正教会では、洗礼を聖洗(せいせん)とも言い、受洗は領洗(りょうせん)ともいう。産後40日を経てからの幼児洗礼が通例。洗礼を施す日は原則として主日(日曜日)の朝、聖体礼儀に先立って行う。洗礼の意義を浸水に大きく見出し、浸礼を基本とするが、潅水もしばしば行われる。浸礼は川や海などで行われることもある。洗礼は「父と子と聖神(聖霊)」の名において施され、受洗者は三度水に浸される。原則として、受洗者は信仰の純潔を象徴する白い受洗衣をつける。
かつての東方正教会では、洗礼に先立って、啓蒙者(洗礼志願者)として公に認められることが必要とされた。このための儀式を啓蒙礼儀といい、洗礼の8日前に啓蒙礼儀を行った。現在はこの慣習は廃れ、啓蒙礼儀は洗礼式の一部となっている。
なお洗礼と傅膏(西方でいう堅信)は異なる機密であるが、現在の東方正教会については、洗礼後ただちに傅膏機密を行うため、その儀式は一体化している。詳細は傅膏機密を参照。
洗礼を授けることができるのは原則として司祭以上であるが、瀕死者の場合などは、一般信者も洗礼を授けることができる。これを「摂行洗礼」(せっこうせんれい)という。摂行洗礼を除けば、洗礼は聖体礼儀の前に行われ、新たに信者となったものは領聖を行うことになる。このため、領聖をもって初めて洗礼が完了したとみなす論者もある。