シド・ヴィシャス
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シド・ヴィシャス(Sid Vicious, 本名はJohn Simon Ritchie, 1957年5月10日 - 1979年2月2日)は、イギリス、ロンドン生まれのパンクロッカーであり、極度の麻薬中毒者。セックス・ピストルズの2代目ベーシストであるが、加入当時は全くベースが弾けず、その後もまともに弾けるようになったかは疑わしい。それにも拘らず、そのパンクロックを地で行く生き方から、彼を「パンクの精神」と呼び、崇拝する人間はイギリス国内外問わず数多い。1979年2月2日夜、薬物の過剰摂取により死亡。享年21。
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[編集] 概要
[編集] セックス・ピストルズ
シドはセックスピストルズの熱狂的なファンの一人だった。ファンの頃からピストルズの記者会見中に記者が邪魔でピストルズが見えないと言ってその記者を殴るなど、目立った存在だった。またシドは見た目がよく、ヴォーカルのジョニー・ロットンの友人でもあった。そのため、初代ベーシストにして唯一の作曲者グレン・マトロックがセックス・ピストルズを脱退すると、シドが後任のベーシストとなった。これにはバンドのマネージャーであったマルコム・マクラレンの誘いがあった。加入した当初は全くベースが弾けず、その後もライブでもベースで客を殴ったり、喧嘩ばかりしていた。そのパンクを地で行く生き方は多くの若者の支持を集め、後期ピストルズにおいてロットンと人気を二分した。しかし過激な伝説とは裏腹に、本来は非常に気弱で貧弱な青年であったと言われ、セックスピストルズ在籍時にはロットンにいじめ抜かれたと言う。
[編集] 解散後
セックス・ピストルズが解散すると、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」やエディ・コクランの「サムシング・エルス」、「カモン・エブリバディ」などのパンクバージョンを収録したソロアルバム「シド・シングス」をリリースした。しかし以前から溺れていた麻薬のためスキャンダラスな行動を繰り返す。1978年10月13日には、ニューヨークにあるホテルのバスルームで恋人のナンシー・スパンゲンの死体が発見された。真相は明らかでないが、麻薬で錯乱したシド自身が刺殺したとも言われている(この事件に関してはアラン・パーカー「シド・ヴィシャスの全て VICIOUS――TOO FAST TO LIVE…」ロッキング・オン刊が詳しい)。ちなみにシドが麻薬に溺れたのも元はといえばナンシーの影響である。警察には逮捕されるものの、保釈された。その後も自殺未遂を起こし、2月1日には麻薬の過剰摂取により死亡した。シドの母親は、ナンシーの墓の隣に埋葬して欲しいという息子の遺言を果たそうとするが、ナンシーの両親に拒絶された為にシドの墓を掘り起こして彼の遺灰をナンシーの墓に撒いた。
シドは他のパンクロッカーと同様、ピストルズに憧れ、ピストルズの行いを真似する事に囚われすぎた人物であった。しかしながら、たとえ彼の行いがパンクロッカーの理想を演じていたに過ぎないとしても、彼ほど純粋にそれを突き通した人物はおらず、今なお彼は世界で最も有名なパンクロッカーである。
[編集] 関連事項
- 1986年にシド・アンド・ナンシーで映画化された。シドを演じたゲイリー・オールドマンは熱心に彼の母親の元へ彼のことを聴きに行き、遺品のアクセサリーなどを多数映画のため託された。
- Rが刻印されている南京錠のネックレスとリング・ベルトをトレードマークとして身につけていた。
- 白ボディに黒ピックガードのプレシジョンベースを使用。シド自身ベースを殆ど演奏できない為、演奏よりも客との喧嘩に使われる事が多かった。
[編集] 外部リンク
- シド・ヴィシャス「死して音も残さず」(爆烈ベーシスト列伝)
カテゴリ: イギリスのミュージシャン | パンクミュージシャン | 1957年生 | 1979年没