フランク・シナトラ
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フランク・シナトラ(Frank Sinatra、1915年12月12日 - 1998年5月14日)はアメリカのジャズ・ポピュラー歌手。本名、フランシス・アルバート・シナトラ(Francis Albert Sinatra)。エルヴィス・プレスリーやビートルズなどと並び、20世紀を代表する歌手の一人である。その卓越した歌唱力によって「ザ・ヴォイス」と称された。また映画俳優としても活躍した。
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[編集] 略歴
- 1915年、ニュージャージー州ホーボーケンに生まれる。
- 1935年、ホーボーケン・フォーの一員として歌手デビュー
- 1939年、幼友達ナンシー(Nancy Barbato)と結婚。
- 1939年、ハリー・ジェームス楽団の歌手としてプロとしてメジャーデビュー
- 1940年、トミー・ドーシー楽団に移籍
- 1941年、映画『ラスベガス・ナイト』に楽団歌手として初出演。
- 1942年、ラジオ番組のレギュラーをきっかけにソロデビュー。
- 1951年、ナンシーと離婚。女優エヴァ・ガードナーと結婚。
- 1953年、映画『地上より永遠に』で第26回アカデミー賞助演男優賞を受賞。
- 1957年、エヴァと離婚。
- 1961年、自分のレーベル、リプリーズを設立。
- 1966年、女優ミア・ファローと結婚。
- 1968年、ミアと離婚。
- 1971年、引退を発表。
- 1973年、アルバム『OL'BLUE EYES IS BACK』で芸能界にカムバック。
- 1976年、ゼッポ・マルクス(マルクス兄弟の末っ子)の元妻、バーバラと結婚。
- 1985年、大統領自由勲章を受賞。
- 1998年5月14日、多臓器不全により死去。
[編集] プロフィール
[編集] プロデビュー
1915年、ニューヨーク市近郊のニュージャージー州ホーボーケンでイタリア系アメリカ人の家庭に出生した。1930年代初頭、当時ラジオで人気を得ていたビング・クロスビーの歌声に憧れて歌手を志す。1935年、20歳の時に地元のイタリア人ボーカルトリオ「ザ・スリー・フラッシズ」に参加、「ホーボーケン・フォア」としてラジオ出演・全米巡業(ただし他のグループ・芸人も一緒の一座であり店頭などで歌った)などを行い後に脱退。 バーのラウンジで歌っていたところを見出され1939年には当時大衆的な人気が高かったトランペッター、ハリー・ジェームスの楽団「ミュージック・メイカーズ」の専属歌手としてプロデビューする。その歌唱スタイルはクロスビーの影響下にあるクルーナースタイルであった。
1940年にはやはり人気のあったトロンボーン奏者トミー・ドーシーオーケストラに引き抜かれ移籍して大活躍、10代の女性を中心にシナトラへの人気を決定的なものとした。音楽的に、リーダー トミー・ドーシーの滑らかなトロンボーン・プレイを研究し、自らの歌い回しに取り込み、また、世界で最初にマイクロフォンをマイクスタンドから取り外して歌うなど、マイクロフォンの特性を熟知し、自らの楽器とした巧みな歌唱テクニックは、既にこの頃から発揮されていた。
[編集] アイドル
1941年からアメリカも参戦した第二次世界大戦では、決して少なくない芸能人が兵士として徴兵され、また兵役を自ら志願もした。しかしシナトラ自身は出生時、難産であり鉗子のため鼓膜が破れており兵役不合格となった。その為、AFRS(American Forces Radio Service = アメリカ軍ラジオサービス)や慰問部隊の歌手の一人としてアメリカ全土の基地や戦地を回った。従ってその歌手としてのキャリアが兵役によって中断されることはなかった。
アメリカ全土から若者が戦場に赴いたこの時代、若々しい歌声のシナトラは若い女性たちの代替的恋人とも言うべき存在で、「ボビーソクサー(女学生たち)のアイドル」としてその人気は凄まじいものがあった。劇場での公演では、観客の女性に、興奮のあまり気絶し失禁する者すら出たという。MGMのミュージカル映画にも(演技はさして巧くないものの)多数主演し、のちにスタンダードナンバーとして記憶される名曲を多く歌っている。
[編集] スランプと復活、最盛期
しかしその反動か、第二次世界大戦後の1940年代後半から一時人気が低迷し、1950年には喉の疾患で一時声が出なくなりスランプに陥った。とうとう所属の映画会社MGM、レコード会社コロムビアからいずれも見放されてしまう。 そのまま過去の存在となるかと思われたが、1953年にはフレッド・ジンネマン監督の文芸映画『地上より永遠に』の脇役であるイタリア系兵士「マッジオ」役が転機となった。これまでの主役級を演じてきた彼にとって脇役の演技は格落ちであったにも関わらず、この役にほれ込み相当の運動をおこなった。軍隊内の虐待で惨めに死んで行く兵士を熱演しその結果、アカデミー賞助演男優賞を獲得、奇跡的なカムバックを成し遂げる。なお、この役に採用されるまでのエピソードがマフィアを描いた映画「ゴッドファーザー」で取り上げられている(詳細は後述)。
相前後して1940年代から契約していたコロムビア・レコードに代わり、当時は新興レーベルだったポピュラー音楽界の有名レーベルであるキャピトル・レコードと1952年に専属契約。歌手としてのキャリアを積んだ結果円熟の度を重ねた歌唱を発揮し、コロムビア・レコード時代の盟友アクセル・ストーダールとのコンビを解消、新たにネルソン・リドル、ビリー・メイ、ゴードン・ジェンキンズなどの優れた編曲家が指揮するオーケストラをバックに、スタンダード曲や、座付き作者とも言うべき作曲家ジミー・ヴァン・ヒューゼンと作詞家サミー・カーンらによる新曲を、多数録音した。こうして1950年代後半にキャピトルから多数送り出されたアルバムは、ジャズ的センスに富んだ質の高いものばかりで、シナトラの最盛期をこの時代とする批評家は多い。またシナトラ+リドルの、シンガー+アレンジャーのコンビネーションは、アメリカポピュラー音楽史上最高と言われている。
[編集] "シナトラ一家"
最盛期であった1950年代後半に、サミー・デイヴィスJr.やディーン・マーティン、ピーター・ローフォードらとともに「シナトラ一家」を組み、ネバダ州・ラスベガスに自らが所有するカジノホテル、「サンズ」(Sands)を中心にツアーを行ったほか、『オーシャンと11人の仲間』(後にジョージ・クルーニー、ブラッド・ピット、アンディ・ガルシアなどの出演でリバイバルされた『オーシャンズ11(Ocean`s Eleven)』のオリジナル)などの映画に出演した。
公民権運動が徐々に高まりつつあったが、まだまだ人種差別が激しく、多くのホテルがアフリカ系アメリカ人を客として受け入れることを拒んでいた1950年代のアメリカで、アフリカ系アメリカ人であるサミー・デイヴィスJr.を一家に入れて「サンズ」のショーに出演させることに反対するものが多かった。しかしシナトラはサミー・デイヴィスJr.の音楽センスを高く評価していた上に、新興移民のイタリア系であることから、自ら人種差別を受けることも多く人種差別を嫌悪していたため、周囲の反対を押し切ってサミー・デイヴィスJr.をシナトラ一家に迎え入れた。しかしその反面、シナトラと仲の良かったアフリカ系アメリカ人ミュージシャンのクインシー・ジョーンズは自伝の中で、シナトラが日常的に人種差別発言を行っていたことを暴露している。
[編集] リプリーズ期
1960年代に入ってからは、個人レーベルとして「リプリーズ」を設立、キャピトル時代に比してやや水準は劣るものの、良質なアルバムを送り出している。1969年にはフランスの曲にポール・アンカが英語詞を付けたナンバー「マイ・ウェイ」をヒットさせた(これは通俗的に流行したことで日本でもよく知られており、シナトラ=「マイ・ウェイ」のイメージが強い)。1971年には一時引退を表明したものの、1973年には再び芸能界にカムバック、以後晩年まで活躍を続けた。
1985年にはその長年の活動が認められて、ロナルド・レーガン大統領より大統領自由勲章を授与された。
[編集] 晩年
1990年に全日空がニューヨーク線を開設する際にテレビCMに出演、同時に最後の世界ツアーを行い、1991年には横浜アリーナで最後の単独来日、1994年にナタリー・コールとジョイント公演を福岡だけで行った。
1993年には、ロックンロール界の大御所であるU2のボノや、スペイン人スター歌手のフリオ・イグレシアスなどのスーパースターとの競演アルバム『Duets』2作をリリースし、高い評価を受けるとともに最後の世界的ヒットとなった。1998年5月14日に心臓発作により永眠した。
[編集] マフィアとの関係
[編集] ゴッドファーザー
シナトラは、その生涯にわたってイタリア系マフィアとの黒い噂が絶えなかった。特に『地上より永遠に』の脇役に抜擢されるまでのエピソードは、後にイタリア系マフィアの血族を描いた映画『ゴッドファーザー』(パート1)で取り上げられ有名になる(映画上ではさすがに実名ではなく、「ジョニー・フォンテーン」と言う芸名になっている)。あるパーティーに「ゴッドファーザー」の原作者のマリオ・プーゾが同席していて、知人がプーゾをシナトラに紹介しようとしたら「Fuck off(うせろ)!!」と怒鳴ったのは有名な話である。
実際、ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺の黒幕の一人と言われるイタリア系マフィアの大ボス、サム・ジアンカーナとはシナトラの歌手デビュー当時から密接なつき合いがあり、また、ケネディ大統領とその死の直前まで交際があったマリリン・モンローを紹介したのがシナトラであったことから、ケネディ大統領暗殺の際には何らかの役割を果たしたのではないかとも言われている。
これに関して娘のナンシーによれば、ケネディが大統領選に立候補する際、ケネディの父親でマフィアと繋がりの深かったジョセフ・ケネディが、ショービジネス界を裏で握っているサム・ジアンカーナに選挙運動に協力するように頼んでほしい、とシナトラに頼んだとのこと。ところが大統領当選後、ケネディ家とマフィアとの関係を怪しんだフーバーFBI長官(当時)がケネディ大統領に目をつけたため、弟のロバート・ケネディがマフィアを徹底的に取り締まると発表した。ケネディ兄弟の暗殺はこの「裏切り」に対する報復であっただろうとする見方もある。
ちなみにシナトラはケネディ大統領暗殺事件の直後、自分が出た映画「3人の狙撃者」のフィルムを回収して回った。なぜなら、そこでのシナトラの役は大統領狙撃未遂の主犯だったからである。
[編集] ケネディ大統領暗殺
ケネディが大統領に当選した1960年の大統領選挙の際には、知人であったケネディのために友人のマフィアとともに労組票の取り纏めを行うなど協力した。しかし、元々ケネディ大統領の父親のジョセフ・パトリック・ケネディは禁酒法時代に密造酒製造・販売で財を成してのし上がった過去があり、密造酒商売を通じてマフィアと関係を結んでいたダーティな人物であった。父の協力で大統領に当選したケネディはその事が表ざたになることを恐れ、大統領就任後にはマフィアとの繋がりがあるシナトラを露骨に避けた。
このような無礼な仕打ちに怒ったシナトラは徐々に反ケネディに傾いて行き、しまいにはケネディのライバルであるリチャード・ニクソンと密接な関係を結ぶまでになった。この事が「ケネディ大統領暗殺の際にシナトラが何らかの役割を果たしたのではないか」と言われる根拠となっている。
[編集] FBI資料
なお、前記のジアンカーナの他にもカルロ・ガンビーノやラッキー・ルチアーノなどのイタリア系マフィアの歴代の大ボスとの交流があったことが、FBIの資料で公になっており、その資料は合計で2,403ページにも及ぶことから、いかに深く広いつき合いがあったかわかる。
[編集] 私生活
1939年にホーボーケン時代からの恋人ナンシー・バルバトと最初の結婚をした後、1951年に離婚するまでの間に3人の子供をもうけた。長女ナンシーは歌手として活躍し、特にスパイ映画の007シリーズ第5作『007は二度死ぬ』の主題歌は世界的なヒットとなった。次女ティナは女優としてテレビを中心に活躍した。長男のフランクJr.も歌手となったが1963年に誘拐され、240,000ドルを要求されたものの2日後に解放された。
ナンシーと離婚してからわずか10日後にハリウッド女優のエヴァ・ガードナーと再婚したものの、1957年に離婚。1966年には30歳年下の女優、ミア・ファローと結婚したがこの結婚はわずか2年しか持たなかった。最後の妻となるバーバラとは1976年に結婚し、1998年に死ぬまで添い遂げた。
[編集] プレイボーイ
前記のモンローやローレン・バコール、キム・ノヴァク、 シャーリー・マクレーン、ナタリー・ウッドなど多くのハリウッド女優と浮名を流したほか、同じくハリウッド女優のエヴァ・ガードナーやミア・ファローなどと計4回結婚するなど、生涯を通じてプレイボーイとして名を馳せた。
[編集] 音楽
生涯を通じ数多くのミリオンセラーを連発した他、ルイ・アームストロングやアントニオ・カルロス・ジョビン、セリーヌ・ディオンやビング・クロスビーなどの音楽界との大物との競演、競作も数多い。ヒットした曲の多くがスタンダートとして、多くのアーティストにカバーされている。
[編集] 代表的なヒット曲
- オール・オア・ナッシング・アット・オール (All Or Nothing At All)
- 1939年、シナトラ初のミリオンセラー曲。
- アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージリー (I Fall In Love Too Easily)
- タイム・アフター・タイム (Time After Time)
- アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー (I'm A Fool To Want You)
- フライ・ミー・トウー・ザ・ムーン(Fly Me to the Moon)
- カム・フライ・ウィズ・ミー(Come Fly with Me)
- マイ・ウェイ(My Way)
- ニューヨーク・ニューヨーク(New York, New York)
- 夜のストレンジャー(Strangers in the Night)
- サムシング・スチューピッド(Somethin' Stupid)
- ザ・ウェイ・ルー・ルック・トゥナイト(The Way You Look Tonight)
[編集] アルバム
- カム・フライ・ウィズ・ミー
- カム・ダンス・ウィズ・ミー
- スイング・イージー
- アカデミー・アウォード・ウィナーズ
- シナトラ・ライブ・アット・ザ・サンズ
- アラウンド・ザ・ワールド
- 夜のストレンジャー
- グレイテスト・ヒッツ
- クリスマス・アルバム
- シナトラ&ジョビン(アントニオ・カルロス・ジョビンとの競演)
- ボイス
- デュエッツ
- デュエッツⅡ
- マイ・ウェイ
- ザッツ・ライフ
- セプテンバー・オブ・マイ・イヤーズ
- シナトラ・アンド・カンパニー
- ボイス~コロンビア・イヤーズ1943-1952
- キャピトル・イヤーズ
- リプリーズ・コレクション
[編集] 日本公演
- 1989年 with サミー・デイヴィスJr.、ライザ・ミネリ
- 2月23日 大阪城ホール、25日 東京ベイN.Kホール
- 3月10日,11日 横浜アリーナ
- 11月19日,20日 福岡ドーム
[編集] 映画
『地上より永遠に』で1953年にアカデミー賞助演男優賞を獲得した他、『踊る大紐育』や『上流社会』、『脱走特急』などの多くの作品に主役、準主役級で出演した。中でもオットー・プレミンジャー監督作品『黄金の腕』で演じた麻薬中毒に苦しむ博打うちのドラマー役は鬼気迫る名演として評価されている。『錨を上げて』、『踊る大紐育』、『上流社会』、『抱擁』などの劇中で歌唱したナンバーは名曲が多く、後世までスタンダードとなった歌も少なくない。
しかし一方で、中年期以降に主演した映画には、質的に他愛ない水準の作品もまま見られ、B級女優を相手に配してワンマン的大名演技を見せるだけの例も少なくなかった。
知名度の高さから『八十日間世界一周』や『キャノンボール2』などのカメオ出演でも活躍したが、特に1965年の『オスカー』では、ラストシーンでの一瞬の登場だけで全てをひっくり返すどんでん返しの役割を演じて秀逸であった。
[編集] 出演作
- ラスヴェガスの夜(Las Vegas Nights 、1941)
- おおい、その船(Ships Ahoy、1942)
- グッドモーニング・ベヴァリー(Reville with Beverly、1943)
- どんどん高く(Higher and Higher、1943)
- 芸人ホテル (Step Lively、1944)
- 錨を上げて (Anchors Aweigh、1945)
- 下町天国 (It Happened in Brooklyn、1947)
- 奇蹟の鐘 (The Miracle of the Bells、1948)
- キッシング・バンディット(The Kissing Bandit、1948)
- 私を野球へ連れてって(Take me Out to the Ball Game、1949)
- 踊る大紐育 (On the Town、1949)
- ダブル・ダイナマイト(Double Dynamite、1951)
- ダニー・ウィルスンに会ってくれ(Meet Danny Wilson、1952)
- 地上より永遠に (From Here to Eternity、1953)
- 三人の狙撃者 (Suddenly !、1954)
- 心の青春(Young at Heart、1955)
- やさしい罠(The Tender Trap、1955)
- 黄金の腕 (The Man with The Golden Arm、1955)
- 野郎どもと女たち (Guys and Dolls、1955)
- 見知らぬ人でなく (Not As A Stranger、1955)
- ジョニー・コンチョ(Johnny Concho、1956)
- 上流社会 (High Society、1956)
- 八十日間世界一周 (Around the World in 80 Days、1956)
- 誇りと情熱 (The Pride and the Passion、1957)
- 夜の豹 (Pal Joey、1957)
- 抱擁 (The Joker is Wild、1957)
- 最后の接吻 (Kings Go Forth、1958)
- 走り来る人々 (Some Came Running、1958)
- 波も涙も暖かい (A Hole in the Head、1959)
- 戦雲 (Never So Few、1959)
- オーシャンと十一人の仲間 (Ocena's Eleven、1960)
- カンカン (Can-Can、1960)
- ペペ (Pepe、1960)
- 四時の悪魔 (The Devil at 4 o'clock、1961)
- 影なき狙撃者 (The Manchurian Candidate、1962)
- 荒野の3軍曹 (Sergeants 3、1962)
- テキサスの四人 (4 For TEXAS、1963)
- ナイスガイ ニューヨーク (Come Blow Your Horn、1963)
- 7人の愚連隊 (Robin and the Seven Hoods、1964)
- 勇者のみ(None But the Brave、1965)
- 結婚専科 (Marriage on the Rocks、1965)
- 脱走特急 (Von Ryan's Express、1965)
- クィーン・メリー号襲撃 (Assault on a Queen、1966)
- 巨大なる戦場 (Cast a Giant Shadow、1966)
- トニー・ローム 殺しの追跡 (Tony Rome、1967)
- 裸のランナー (The Naked Runner、1967)
- 刑事 (The Detective、1968)
- セメントの女 (Lady in Cement、1968)
- 大悪党 ジンギス・マギー (Dirty Dingus Magee、1970)
- 第一の大罪(The First Deadly Sin、1980)
- キャノンボール2 (The Cannonball Run II、1983) 本人役
[編集] 関連事項
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