ホルミズド1世
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ホルミズド1世(Hormizd I、生年不詳 - 273年)は、サーサーン朝ペルシア帝国の皇帝(シャーハーンシャーフ)である(在位:272年 - 273年)。彼はシャープール1世の息子で、ホラーサーンの統治を任されていた。タバリーをはじめとするアラビア語文献では「フルムズ」 هرمز Hurmuz 、近世ペルシア語では「ホルミズド」「ホルムズド」 هرمزد hormuzd /hormizd と呼ばれているが、中期ペルシア語(パフラヴィー語)では「オ(ー)フルマズド」 'wḥrmzdy / Ōhrmazd /Ohrmazd という。「オ(ー)フルマズド」とは中期ペルシア語で「アフラ・マズダー」神のことを言う。
ローマとの戦争記録、ローマ皇帝群像にも彼の名前は登場している。アルメニアのペルシア総督でシャープール1世がローマからアンティオキアを奪取する際に重要な役割を果たした。このときの活躍によってhormizd the brave、勇敢なるホルミズドという異名を持つようになった。
サーサーン朝末期頃に編纂されたと思しきパフラヴィー語文書『パーパグの子アルダフシールの行伝』(Kārnāmag ī Ardaχšīr ī Pāpagān)に残されている、ぺルシアの伝統と歴史の中のアルダシール1世の箇所にはホルミズド1世はミトラークの娘の間に生まれたとある。ミトラークはペルシアの君主で、その一族はアルダシール1世に滅ぼされた。宗教的な学者が彼にミトラークの血統を絶やさねばいつかまたペルシア帝国を復興させてしまうだろうと予言したからだった。
この娘だけが農夫の手によって守られていた。シャープール1世は彼女と出会い、妻とした。ホルミズド1世はしばらくしてアルダシール1世に認められた。また9世紀から10世紀前半に活躍したアッバース朝を代表する歴史家アブー・ジャアファル・ムハンマド・イブン=ジャリール・アッ=タバリーen:Muhammad ibn Jarir al-Tabariの主著『諸使徒と諸王の歴史』(Ta'rīkh al-Rusul wa al-Mulūk)の中にも一部このようなものが残されており、この伝説の中では、シャープール1世の大征服はホルミズド1世に書き換えられている。しかし実際に、彼が統治した期間はわずか一年と十日に過ぎない。
[編集] References
- この記述はパブリックドメインの百科事典『ブリタニカ百科事典第11版』("Encyclopædia Britannica" 1911年版)に基づいています。
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カテゴリ: ブリタニカ百科事典第11版 | ササン朝の君主 | 273年没