ジュール・セザール・スカリジェ
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ジュール・セザール・スカリジェ(Jules César Scaliger, 1484年4月23日-1558年10月21日)は、フランスの医師、哲学者、文法学者。イタリア出身で本名はジュリオ・ボルドーニ(Giulio Bordoni)。ルネサンス期におけるいわゆる「万能人」の一人と位置付けうる博学多才の人物であったが、その名声は主に文法学の分野で形成された。人文主義者ジョゼフ=ジュスト・スカリジェの父。
[編集] 生涯
1484年に(おそらくはパドヴァで)細密画(ミニアチュール)画家ベネデット・スカリジェの子として生まれた。後年、本人はヴェローナの名家デッラ・スカラ(della Scala)の流れを汲んでいると主張していた(スカリジェという変名は、この主張に由来する)。
パドヴァ大学で古典文学を学んだ後、20年ほどイタリア北部を転々としていたようである。本人によれば、神聖ローマ皇帝やフランス王のもとで従軍経験があったものの、通風の発症によって軍務を離れたとのことであるが、事実関係は定かでない。その後、ヴェローナで医学を学んだようである。
1525年にアンジェロ・デッラ・ロヴェーレ(Angelo della Rovere, Antoine de La Rovère)がアジャン司教に任命された際に、司教に随行する形でフランス入りした。司教附きの医師としてアジャンに居を定め、3年後にアンディエット・ド・ラ・ロック・ルーブジャック(Andiette de La Roque Loubejac, 姓の表記には若干の揺れがある)と結婚した。アンディエットとの間には、ジョゼフ=ジュスト(第10子)を含む15人の子供をもうけた。
どういう接点によったものかは定かではないが、若かりし頃のフランソワ・ラブレーやノストラダムスをアジャンに招いたこともあった。ただし、その親交は長くは続かなかった。一因として、スカリジェの性格上の問題点が指摘されている。彼は博学多才の一方で、自身の能力に対する自負心が並外れていた。また、敵対者には容赦なく痛罵を浴びせるなど、いささか気難しい性格で知られていたのである。
彼は当時の著名な知識人たちに対抗心を燃やしたが、とりわけキケロのラテン語論をめぐって、デジデリウス・エラスムスと活発な論争を展開した。
[編集] 主な作品
- De causis linguae latinae, Lyon, 1540 - 真に哲学的なエスプリで考察された文法論。
- De subtilitate, ad Cardanum, Paris, 1557 - ジェロラモ・カルダーノの De Subtilitate を攻撃した書。内容は主として、アリストテレスの『動物誌』とテオプラトスの『植物論』等のギリシャ語作品をラテン語訳したもの。
- Poetices libri VII, Lyon, 1561 - 詩の起源と目的を論じ、最も有名な詩人たちを概観した博識に満ちた書。
- Poemata, Genève, 1574 - ラテン語詩集。内容の評価は芳しいものとは言えない。