ジョホール王国
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ジョホール王国は、マレー半島南部にあったマレー人の王国。1511年ポルトガルがマラッカを占領すると、マラッカ王国の王はマレー半島南端のジョホールに移り、サヨン・ピナンを都としてジョホール王国を建てた。王国はサヨン・ピナンのほかにビンタン島を根拠地としてポルトガルと対抗し、スマトラ島北端のアチェ王国やオランダ東インド会社と結んでマラッカをたびたび攻撃し、1641年にオランダ東インド会社がマラッカを占領するのを助けた。その後バトゥ・サワールを中心として旧マラッカ王国の版図をほぼ支配下に置き、マレー半島南部からスマトラ中部にまたがる大勢力となった。しかし1666年から1679年に至るジャンビ(スマトラ南東部)との戦争、王位をめぐる争い、ブギス族傭兵の介入などで、しだいに分裂状態に陥った。
18世紀末頃には王国は大きく分けてリアウ王国、パハン王国に分かれていた。1819年、イギリス人のトーマス・ラッフルズはシンガポール島に上陸し、リアウの反国王派の王族を招いてジョホール国王とし、シンガポール島に要塞と植民地を建設する条約を承認させた。1824年の英蘭協約によってイギリスとオランダの勢力範囲が確定したが、その副産物としてリアウ王国とジョホール王国の分離が決定的なものとなり、ジョホール王国はマレー半島南部を支配し、リアウ王国はスマトラ中部と付近の島を支配することになった。これにより半島南部にはジョホール、パハンの2王国が並存したが、パハンは1895年マレー連合州の一員とされ、事実上イギリスの植民地になった。一方、ジョホール王国は独立を維持し、シンガポールの対岸に港(1884年ジョホールバルと命名)を建設するなど国内の経済開発を進めた。ジョホール国王スルタン・アブ・バカルは独立を守ることに努力し、1894年憲法を発布したが、その死後の1909年からは政治の実権はイギリス人顧問の手に移り、イギリス領マラヤの一員となった。現在はジョホール州としてマレーシアの一州であるが、スルタンを頂き、16世紀以来の王国の伝統を残している。
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