ジョージ・マロリー
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ジョージ・マロリー(George Herbert Leigh Mallory,1886年6月18日 - 1924年6月8日)は登山家。イギリス人。
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[編集] 来歴
1886年、牧師の子として生まれる。
1921年英国山岳会がエベレストに派遣した第一次遠征隊に参加。 翌1922年の登頂目的で編成された第二次遠征隊で登頂チームのメンバーとなった。5月20日のアタックで8,225mまで到達。人類史上初めて8,000mを越えた。しかしこの時は雪崩による死亡事故もあり、登頂は断念する。
1924年6月8日、イギリス第三次遠征で、第二次アタック隊としてマロリーとアーヴィンがチベット側から頂上に向かった。途中第セカンドステップと呼ばれる切り立った岩壁の難所を登るところまではN・オデルに目撃されていたが、その後行方不明となる(←実際のところ、目撃されたのは本当に人影かどうかは定かではない、見たという位置もファーストステップ、セカンドステップと時期によって供述が違う)。第三次アタック隊がマロリーの登頂に懐疑的な立場を取ったため、マロリーらが登頂を果たしたかどうかはエベレスト登山史上最大の謎となった。
1999年5月1日、遺体がアメリカのマロリー&アーヴィン捜索隊により、標高8,160m付近でうつ伏せのままガレキに体の一部が埋まった状態で発見される。この時、彼が登山時に携帯していたコダックのカメラ (Vest Pocket Model B)の有無が注目された。マロリーは登頂の証明として必ず写真を撮っており、さらにコダック社が「エベレストならば何十年経とうと現像は可能」と断言していたからだ。しかし遺留品の中にカメラはなく、マロリーが登頂を果たしたかどうかは未だ謎のままである。しかし、マロリーが「頂上に置いてくる」と言った奥さんの写真が遺留品の中に見つからなかったことからマロリーは登頂に成功したと唱える説もある。 また、8,570m地点においてマロリーと共に頂上に向かったアーヴィンのピッケルが発見されていた事から、アーヴィンとマロリーは登頂を果たしたが、下山中に何らかの不具合が起き、死亡したという説も新たに出てきた。
一方、イタリアの登山家、ラインホルト・メスナーは、マロリーの登頂成功を明確に否定している。マロリーとアーヴィンの登頂ルートには、「ファーストステップ」と「セカンドステップ」と呼ばれる岩壁があるが、特に「セカンドステップ」と呼ばれる高さ6メートルの岩壁は急峻で迂回路も無く、当時の靴で乗り越えることが不可能だとメスナーは指摘している。実際、この「セカンドステップ」は難所であり、中国の登山隊はアルミのハシゴをかけて乗り越えなければならなかった(60年代、中国の第一次遠征隊は、三人組の人梯でここを乗り越えて登頂に成功したと主張しているが、この時の登頂成功は中国人ですら信用していない)。そして現在に至るも、中国隊が残したハシゴに頼らず「セカンドステップ」を越えられたはたった一人。それも仲間のサポートがあり、しかもハシゴにいつでも手が届く位置だった。マロリー・アーヴィン捜索隊は「セカンドステップ」の急峻さを無視して牽強付会に登頂成功の結論を導いていると、メスナーは批判している。
[編集] 驚異の軽装備
ジョージ・マロリーらは、サングラスをかけ、冬用ジャケットにゲートルを巻いた程度の軽装備でエベレストに挑んでいる。これは現在では考えられない事で、常人ではこの程度の防寒具では、富士山でも冬期ならおそらく登頂できないだろうと言われている。また、酸素ボンベも現在使われているものは約3.5キロであるが、当時は15キロもの重量であった。他の装備も現在の4~5倍の重量でありながら強度は現在のものより遥かに脆かった。従って、ジョージ・マロリーがこの程度の防寒具と、旧式の重い装備で約8,200mまで登ったという事実は賞賛に値するものである。登頂に成功したか否かはではなく、8,200m付近まで登ったという点に注目してマロリーの偉業に感銘を受けている登山家も多い。
[編集] 「そこに山があるから」
1923年、ニューヨーク・タイムズ紙のインタビューで「なぜエベレストに登るのか」という質問に、"Because it is there."(そこにそれがあるから)と答えた。"it"(それ)とは「処女峰エベレスト」を指すものであるが、日本では藤木九三によって「そこに山があるから」と訳された。登山家の信念を表す名言として現在まで語り継がれている(ただし、面倒くさくて適当に答えていただけと言う説もある)。 このことについては本多勝一が複数の著書で指摘し、日本山岳会の会報で該当する記事の全文訳も行っている。