チェサピーク湾の海戦
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チェサピーク湾の海戦 | |
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フランスの戦列艦ヴィル・ド・パリとアウグスト |
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戦争: アメリカ独立戦争 | |
年月日: 1781年9月5日 | |
場所: バージニア州 チェサピーク湾 | |
結果: フランス軍の決定的な勝利 | |
交戦勢力 | |
フランス軍 | イギリス軍 |
指揮官 | |
グラス伯フランソワ・ジョセフ・ポール | トーマス・グレイブス卿 |
戦力 | |
24隻 | 19隻 |
損害 | |
なし | 数隻が破損 |
チェサピーク湾の海戦(チェサピークわんのかいせん、英:Battle of the Chesapeake)は、アメリカ独立戦争中の1781年9月5日、チェサピーク湾口の近くで、海軍少将トーマス・グレイブス卿率いるイギリス海軍と、同じく海軍少将グラス伯フランソワ・ジョセフ・ポール率いるフランス海軍の間で戦われた海戦。バージニア岬の海戦とも呼ばれる。イギリス海軍の手痛い敗北に終わった。
フランス艦隊の勝利によって、バージニアのヨークタウンに駐屯していたチャールズ・コーンウォリス将軍の部隊に増援を送るというイギリス軍の任務が果たせなくなった。その結果ジョージ・ワシントン軍によるヨークタウンの包囲戦が功を収め、コーンウォリスは降伏した。その後、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めることになった。
目次 |
[編集] 背景
アメリカ独立戦争の南部戦線では戦略的に決着の付かない状態が続き、イギリス軍のコーンウォリス将軍は、ニューヨークにいるヘンリー・クリントンの部隊と連携をとるために、1781年の夏、北に向かった。ニューヨークはジョージ・ワシントンの大陸軍とロシャンボー伯爵のフランス軍から攻撃される恐れがあった。陸路を採るよりも海路が安全と見たコーンウォリスは、ヨークタウンの海岸に行き、海軍の助けを借りてニューヨークへ行こうとした。ヨークタウンにイギリス軍が居るということで、チェサピーク湾を支配することが海軍の重要な目標となった。コーンウォリスは、カリブ海のハリケーン・シーズンを回避して北方へ進むイギリス海軍西インド諸島艦隊が来てくれることを期待していた。同時に、ワシントンもチェサピーク湾の戦略的重要性を認識して、カリブ海にいたフランス艦隊に至急来援するよう依頼していた。
海軍少将サミュエル・フード卿の率いるイギリス艦隊が8月25日にチェサピーク湾の入り口に到着した。しかし、そこにフランス艦隊がいないことを確認したフードは、多分事態を甘く見ていたのだろうが、14隻の戦列艦からなる艦隊全部でニューヨークのトーマス・グレイブス提督の艦隊との合流に向かった。しかし、ニューヨークに着いてみると、グレイブスは戦闘に使える戦列艦をわずか5隻しか持っていないことがわかった。
一方で、グラス伯は27隻の戦列艦にさらにサンシモン子爵指揮下のフランス正規軍3連隊を乗せて、8月29日にチェサピークに到着した。イギリス海軍はすでに二つの致命的なミスを犯していたことになる。一つは、フランス艦隊の動きを察知していなかったこと。もう一つは、敵の戦力を過小評価して適切ではない戦力を戦場に送ったことである。
[編集] 戦闘
イギリス海軍は、19隻の戦列艦でグレイブスの指揮により、9月5日の朝チェサピーク湾に戻った。そして、ヘンリー岬の陰に24隻のフランス艦が停泊しているのを発見した。グラス艦隊の他の3隻は、湾の奥にあるヨーク川とジェイムズ川の封鎖に派遣されていた。しかも停泊している船はフランス陸軍の上陸のために忙しく、士官も船員もボートも無い状態だった。
風向きも潮も按配がよく、停泊しているフランス艦の戦闘準備ができていないことを発見したイギリス軍はすぐに湾に突入して総攻撃を掛ければ敵を撃破できたかもしれない。しかし、ありえないことに、グレイブスの頭にそのような考えが浮かばなかった。当時の伝統的な海戦戦術は、双方の艦隊が戦列を作って大砲の射程内に近づき、戦列艦がそれぞれ自艦の前の敵艦に大砲を撃ちかけるというものだった。
イギリス艦隊が時間をかけて戦列を作っている間に、フランス艦は碇を切り湾の外に出て自軍の戦列を作り上げてしまった。時間は午後の4時過ぎであり、両軍が互いを認識してから6時間が経っていた。この時やっとイギリス軍は風上の有利な位置で戦火を開く準備ができた。両軍はほぼ東に動いて湾から離れた。双方の先頭を行く船が射程内に入っていく角度で互いに接近していたが、それに続く船はまだ前の船との距離を縮める操船を行っていた。この時風向きが変わり、後ろの方の船が接近することが難しくなった。このために先頭の船同士が戦闘開始のときから激しく絶え間ない砲火を交えることになった。後方の船は全く戦闘に加わることができなかった。しかもイギリス軍の指揮官グレイブスが発した明らかに矛盾する信号でイギリス艦隊に混乱が起こった。
夕闇の6時半頃、戦闘は終わった。グレイブスは風上に進路を取るように全艦に信号を送り、両軍の戦列が離れた。この時までに先頭にいて敵の矛先を受け続けていたイギリス艦が大破して、どうやってもうまく戦い続けられない状態になっていた。多くのイギリス艦が浸水を起こしており、修理を必要としていた。フランスの艦隊も艦の艤装やマストをひどく破壊されていた。
[編集] 戦後
戦闘は9月5日の日没とともに終わったが、その後数日間、両軍は互いを視認できる距離をおいて睨み合いを続けた。両軍とも艦船の修理をしながら再戦できる機会を窺がっていた。その間にも両軍共に戦略的目標であったチェサピーク湾から遠ざかっていた。遂に9月9日の夕刻、グラス伯が手詰まりを続けることの無益さを認め、フランス艦隊を引き返させた。翌日彼らがヘンリー岬に到着すると、留守中にバラス伯がロードアイランドのニューポートから7隻の戦列艦とともに到着しており、チェサピーク湾はフランス軍の絶対的な支配下に入った。 実際の海戦は決着が付いたとは言いがたいが、それに続く陸上での戦闘から、チェサピーク湾の海戦はフランス軍の大きな戦略的勝利となった。コーンウォリスには救援が届かず、フランス軍はグラスが運んできた部隊で増強され、ワシントン軍と合流できた。この後にヨークタウンの包囲戦とコーンウォリス軍の降伏と続き、イギリス軍の決定的な敗北となった。
[編集] 記念碑
バージニアのフォートストーリーにあるヘンリー岬記念公園には、国立公園局の管理する記念碑がある。ここではアメリカ合衆国の独立を助けたグラス伯とその船員を顕彰している。
[編集] 参戦した艦船
船名の後の数字は搭載大砲の数
フランス (グラス伯) | イギリス (グレイブス) |
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Pluton 74 (d'Albert de Rions) |
前衛 |
[編集] 関連項目
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