ジョージ・ワシントン
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アメリカ合衆国初代大統領
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任期: | 1789年4月30日 – 1797年3月4日 |
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副大統領: | ジョン・アダムズ |
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出生日: | 1732年2月22日 |
生地: | バージニア州 ウェストモーアランド郡 |
死亡日: | 1799年12月14日 |
没地: | バージニア州 マウントヴァーノン |
政党: | 無所属 |
配偶: | マーサ・ワシントン |
サイン: |
ジョージ・ワシントン(George Washington, グレゴリオ暦1732年2月22日 - 1799年12月14日、ユリウス暦では1731年2月11日生れ)は、アメリカ合衆国の初代大統領。
アメリカ合衆国憲法下での最初の大統領であり、建国の父として首都や州名などにその名を遺す。
目次 |
[編集] 生い立ち
彼はバージニア州ウエストモーランド郡のコロニアル・ビーチ南部にあるポープズ・クリーク・プランテーションで生まれた。彼の誕生日は1731年2月11日(ユリウス暦)1732年2月22日(グレゴリオ暦)となっているが、グレゴリオ暦の方が有名である。日付が1年以上食い違っているように見えるが、これは、当時イギリスでは3月25日が年初日とされていたためで、生年そのものは1732年である。
ワシントンの一家はバージニア州で奴隷プランテーションを経営し、経済的、文化的に恵まれた位置にあった。彼の両親、オーガスティン・ワシントン(1693年 - 1743年4月12日)とメアリー・ボール(1708年 - 1789年8月25日)は、イギリス出の家柄であった。彼は幼年期の多くをスタッフォード郡のフレデリックスバーグに近いフェリー・ファームで過ごした。青年期は測量を学び、ヴァージニア州のシェナンドア渓谷の測量を手伝った。彼は1751年に異父兄弟ローレンスと共にバルバドスを訪れて天然痘にかかるが無事に回復した。病気のあとは顔にあばたとして残った。彼は1752年2月4日にフリーメイソンに加わった。1752年7月にローレンスが死去、彼は最初、ローレンスのマウントヴァーノンの農園を借り、最終的には相続した。
[編集] フレンチ・インディアン戦争
1754年にワシントンはヴァージニア市民軍の大佐に任命され、ヴァージニア西部の一連の砦を構築した。彼はバージニア州知事によってオハイオ渓谷からフランス軍を排除するために派遣された。フランス軍は要求を拒絶し、ワシントンはフランス軍偵察部隊を攻撃、指揮官のジュモンヴィルを含む10人を殺害した。フランス軍の報復を予想したワシントンは小さな砦(ネセシティ砦)を構築した。しかしながらそれは無意味だった。ワシントンの部隊はフランス軍に数で圧倒され、低地に作られた砦は激しい降雨により氾濫に見舞われた。結局彼は降伏せざるを得ず、フランス軍とヴァージニアへの安全な帰還を交渉した。 しかしこの敗戦が結果的にフレンチ・インディアン戦争の開戦を招くこととなる。
1755年、ワシントンはフレンチ・インディアン戦争でイギリス軍のブラドック遠征に従軍した。西ペンシルバニアでのモノンガヒーラの戦いの間に、彼の配下の3頭の馬が銃撃を受け、4発の弾丸が彼のコートを貫通した。この戦いで敗北を喫したものの、彼は退却の際に砲火の下の冷静さを示した。 その後、彼は第1ヴァージニア連隊を組織し、この戦争を通して最前線で戦った。
1759年、彼は大佐の任を辞職し、マーサ・ダンドリッジ・カスティスと結婚した。彼女はダニエル・パーク・カスティスの未亡人であり、ワシントンはカスティスの2人の子供を養子とし、その後実子をもうけることはなかった。ワシントン一家はワシントンが裕福な農民として生活していたマウントヴァーノンへ戻り、バージニア州の下院議員に出馬、当選した。
1774年、ワシントンは第1回大陸会議のヴァージニア州政府代表として、翌年は第2回大陸会議の代表として選出された。1776年、トマス・ペインの『コモン・センス』を読むまで彼は植民地の独立を支持しなかった。
[編集] アメリカ独立戦争
1775年6月15日にフィラデルフィアで行われた大陸会議においてワシントンは植民地軍総司令官に任命される。マサチューセッツの代表ジョン・アダムスはワシントンの任命を、彼の「司令官としての能力...偉大な才能と博識の人格」を引き合いに出して提案した。彼は7月3日に司令官として就任し、アメリカ独立戦争を戦った。
ワシントンは1776年3月17日にドーチェスター高地に大砲を配置しイギリス軍を攻撃、ボストンからの排除に成功した。ウィリアム・ハウ将軍の率いるイギリス陸軍は、カナダのハリファックスへ退却した。ワシントンの軍勢はイギリス軍の攻撃を予想しニューヨークへ移動した。ワシントンは8月22日のロングアイランドの戦いでは敗北したが、戦力の多くを保持したままどうにか退却した。しかしながら、その地域における他のいくつかの戦いでワシントンは革命の将来に疑問を感じながら急いでニュージャージーを越えた。
1776年12月25日の夜に軍を率いたワシントンはデラウェア川を越え、クリスマスの攻撃を予想もせずニュージャージー州トレントンに駐留していたヘッセン軍を攻撃した。続いて1777年1月1日の夜にプリンストンでチャールズ・コーンウォリス将軍の部隊に対する奇襲を行い最終的に州を奪還した。攻撃の成功は独立を支持する入植者達の士気を鼓舞した。
同年末にハウ将軍は植民地の首都フィラデルフィアの占領を目指した攻撃を行った。彼はブランディワインの戦いで9月11日にワシントンの部隊を破り、任務を達成した。ジャーマンタウンの戦いでイギリス軍を退かせるための試みが行われたが、霧と混乱のために失敗し、ワシントンは冬の間フォージ渓谷への撤退を余儀なくされた。、
しかしながら、ワシントンの部隊は敗北から回復し厳しい冬を乗り越え、春にはドイツの男爵フリードリヒ・フォン・シュトイベン (Friedrich von Steuben) の下に訓練を行った。その後彼らは1778年6月28日にモンマスの戦いでフィラデルフィアからニューヨークへ移動するイギリス軍を攻撃した。
すさまじい見込みに対して、ワシントンは革命の間軍勢を維持し、ホレイショ・ゲーツやベネディクト・アーノルドといった将軍達が1777年のサラトガの戦いで勝利を勝ち取った一方、イギリス軍を国の中央部に釘付けにした。モンマスの戦いの後、イギリス軍は南部植民地に攻撃を集中した。また、ワシントンの部隊は南部でイギリス軍と交戦せずロードアイランド州に移動し、ここで彼は戦争の終了まで軍事行動を命令した。
1781年にアメリカ軍とフランス軍およびフランス艦隊が、ヴァージニア州ヨークタウンでチャールズ・コーンウォリス将軍の部隊に罠を仕掛けた。ワシントンは南へ迅速に進み9月14日に軍隊に加わって、イギリス軍部隊が降伏するまで包囲を行った。イギリス軍は降伏し、それはイギリスの独立を抑えようとする試みの終了となった。1783年のパリ条約によって、大英帝国はアメリカの独立を承認した。11月2日にニュージャージー州ロッキー・ヒルでワシントン将軍は「軍隊への送別の式辞」を行った。その後12月4日にニューヨーク州フローンセス・タバーンで彼は公式に彼の部下に別れを告げた。
[編集] 戦後の活動
1783年12月23日、ジョージ・ワシントン将軍はアナポリスのメリーランド州会議事堂で陸軍最高司令官の辞任を議会に申請した。この辞任は成立間もない国家にとっては大きく重要で、軍人ではなく文民から公式に選ばれた大統領が最終的な権威を保持することとなった。ワシントンは絶大な権力を保持することが出来たかもしれず、実際彼の熱心な支持者の間には彼を永久的な統治者にしようとする動きがあった。しかし彼は多くのアメリカ合衆国建国の功労者同様にそのような考えを憎悪した。
ワシントンが退役したとき、階級は中将として登録されていたがこれは大陸軍で最高位の階級であった。
ワシントンは1787年にアメリカ憲法制定会議の議長に選ばれ会議を統轄した。彼は実際の討議にはほとんど参加しなかったが、その名声は大きくそのため平和を維持することができた。彼は夏の間の協定によって採用された秘密を強化した。協定後に彼の支援は憲法を支援するためにヴァージニア州議会を含む多数を確信させた。
彼はおよそ8,000エーカーの農地を所有したが、当時広大な農地を持っていたにもかかわらずその生活は貧しく多くの現金を手にしたことはなかった。実際彼は大統領に就任しニューヨークに転居するために600ポンドの借金をしなければならなかった。
[編集] 大統領職
アメリカで最初の大統領選挙は1789年2月4日に行われた。選挙人を選ぶ方法の決定は各州に任された。13州のうち10州だけが選挙人団の投票を行った。またそれらの10州のうち、5州だけが大統領選出のための一般投票を行った。
ワシントンの大統領選出馬は戦後にマウントヴァーノンで静かな引退生活を望んだマーサにとって期待はずれの出来事だった。しかしながら彼女はすぐにファーストレディとして自らの応接室を開き、政府高官達のための毎週のディナーパーティーを計画した。
大統領に選出されると、閣僚には国務長官にトマス・ジェファーソン、アレクサンダー・ハミルトンなどを起用する。彼は政党は党派的対立を生んで国家を分裂させる素であると考えていた。これは彼が言ったとされている「我々には政党はいらない。なぜなら、我々は全て共和主義者だからだ」という発言に象徴されている。そのため、共和主義者を中心としつつも均衡を重んじた人事を行ったとされている。
[編集] 内閣
職名 | 氏名 | 任期 |
大統領 | ジョージ・ワシントン | 1789 - 1797 |
副大統領 | ジョン・アダムズ | 1789 - 1797 |
国務長官 | トーマス・ジェファーソン | 1789 - 1793 |
エドムンド・ランドルフ | 1794 - 1795 | |
ティモシー・ピカリング | 1795 - 1797 | |
財務長官 | アレクサンダー・ハミルトン | 1789 - 1795 |
オリヴァー・ウォルコット | 1795 - 1797 | |
陸軍長官 | ヘンリー・ノックス | 1789 - 1794 |
ティモシー・ピカリング | 1795 - 1796 | |
ジェイムズ・マクヘンリー | 1796 - 1797 | |
司法長官 | エドムンド・ランドルフ | 1789 - 1793 |
ウィリアム・ブラッドフォード | 1794 - 1795 | |
チャールズ・リー | 1795 - 1797 | |
郵政長官 | サミュエル・オズグッド | 1789 - 1791 |
ティモシー・ピカリング | 1791 - 1795 | |
ジョセフ・ハーバーシャム | 1795 - 1797 |
[編集] 指名した最高裁判所判事
- ジョン・ジェイ - 最高裁長官 - 1789
- ジョン・ラトレッジ - 最高裁長官 - 1795
- オリヴァー・エルスワース - 最高裁長官 - 1796
- ジェームズ・ウィルソン - 1789
- ジョン・ラトレッジ - 1790
- ウィリアム・クッシング - 1790
- ジョン・ブレア - 1790
- ジェームズ・アイルデル - 1790
- トーマス・ジョンソン - 1792
- ウィリアム・パターソン - 1793
- サミュエル・チェース - 1796
[編集] 彼は本当の初代大統領か?
独立戦争と、合衆国憲法が署名されるまでの期間のリーダーがなぜ初代大統領と認められないかと考える人たちもいる。
幾人かは連合規約下の大陸会議議長が本当の初代大統領として遡って考えるべきだと主張する。政治上二つの地位は、一方が緩やかな連合を支配した単なる議会議長であり、もう一方は実際の連邦政府の長として活動的な代表だった点で異なる。この違いから多くの歴史家は二つの地位が同一ではないと考える。従って「本当の」初代大統領(アメリカ合衆国の国家元首)はジョージ・ワシントンである。
なお、当のワシントン自身は、初代大統領は初代大陸会議議長であったジョン・ハンソンであると考えていた。
[編集] 晩年
1797年3月に大統領を退任した後、ジョージ・ワシントンはマウントヴァーノンへの帰郷を熱望した。1798年に彼はフランスとの戦争の脅威に晒されていたアメリカ陸軍少将として最高司令官に再び指名された。ワシントンの任命は戦争が切迫していたフランスに対する警告であった。しかしながら同年内に彼は急性喉頭炎に罹患し1799年12月14日に自宅で死去したため彼は現役勤務することはできなかった。
現代の医者はワシントンが連鎖球菌による喉の伝染病あるいは、治療による大量失血のショックと脱水症の合併症で死んだのではないかと考える。彼はマウントヴァーノンの家族墓地に埋葬された。
独立戦争時の同僚であり下院議員のヘンリー・ライトホース・ハリー・リーはワシントンを「戦争中の、平和のうちの、そして彼の同胞の心の中で一番の市民である。」として称賛した。
彼の死後アメリカ陸軍はその名を「退役」名簿に載せた。生涯陸軍元帥の地位にあったドワイト・D・アイゼンハワー(ただし、大統領在任中は軍籍を離脱)を除き、ジョージ・ワシントンは大統領退任後に軍務に再就役した唯一の大統領である。
1976年にアメリカ陸軍はワシントンを総軍元帥に昇進させ、アメリカ合衆国で序列最上位の陸軍士官であると公表した。
[編集] 個人として
ワシントンを崇拝する動きが、伝記での逸話の創造に繋がった。子供のとき桜の木を切ったことを父親に正直に話したら、かえって誉められたという挿話(ワシントンの斧 - George Washington's axe) が流布しているが、これはワシントンの死後にマウントヴァーノン教区のパーソン(牧師)、メーソン・ロック・ウィームズが子供向けに書いた『逸話で綴るワシントンの生涯』の中で、「嘘をついてはいけない」という教訓のために書いた作り話である。この話は初版から第四版まで掲載されず、1806年の第五版から掲載された。ウィームズはまたワシントンがフォージ渓谷の近くの森で祈りを続けたという話も創り上げた。ウィームズの経歴も「マウントヴァーノン教区」なるものは存在せず、事実であったかどうか疑わしい。
また、司教のウィリアム・ミードはワシントンが飲酒やダンス、観劇、狩猟といったものに反対する敬虔な人物であるとしたが、ワシントンの養子パーク・カーティスの著書にはワシントンがダンスや狩猟を行ったという著述がある。
彼は24歳の頃から歯槽膿漏に悩まされ、晩年には自前の歯がひとつしか残っておらず、木製の入れ歯を使っていた。3選を拒否した理由のひとつに、「入れ歯着用で、まともな演説ができなくなり、人前に出るのが嫌になってきた」という説がある。この1ドル紙幣の写真でワシントンが口を無理に閉じている理由は、木の入れ歯はバネが強力だったらしく、口から出ないようにしているから。
アメリカ合衆国の首都ワシントン (コロンビア特別区)は彼にちなんで命名された。コロンビア特別区は1790年の議会での議決により建設されたが、ワシントンはホワイトハウスの建設位置を含むその決定に深く関係した。当時将来の首都となる地帯は湿地であり、19世紀まで大部分は湿地のままであった。首都はアメリカ合衆国憲法が記述される間、南部の賛成票を得るため妥協案として北部の大都市ではなく南部に配置された。
ワシントンは、さらにアメリカ陸軍士官学校の敷地としてニューヨーク州ウェストポイントを選定した。
アメリカ合衆国の太平洋側北西部に位置するワシントン州も彼にちなみ命名された。同州は大統領の名を付けた唯一の州である。
アメリカ海軍には彼に敬意を表しその名を付けた艦艇が多数存在する。ワシントンという名の艦艇は歴代に10隻存在し、ジョージ・ワシントンという名の艦艇は歴代に4隻存在する。(ワシントンのページを参照)
彼はまたその肖像を1ドル紙幣および25セントコインに使用されている。ワシントン(コロンビア特別区)のジョージ・ワシントン大学も彼にちなんで命名された。
[編集] 関連項目
- 1789年アメリカ合衆国大統領選挙
- 1792年アメリカ合衆国大統領選挙
- ワシントン記念塔
[編集] 外部リンク
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