ティベリウス・グラックス
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ティベリウス・センプロニウス・グラックス(Tiberius Sempronius Graccus 紀元前163年-紀元前133年)は紀元前2世紀の共和政ローマの政治家。グラックス兄弟の兄の方。弟はガイウス・センプロニウス・グラックス。
護民官として没落しつつあったローマの自営農民を救うべく農地改革に着手、しかし反対勢力である元老院保守派や民衆によって殺害される。ティベリスの殺害によりローマは内乱時代に突入する。
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[編集] 経歴
ティベリウスは紀元前163年に生まれる。父は大グラックス、母はコルネリア・アフリカナ(スキピオ・アフリカヌスの娘)。父グラックスがスキピオ・アクリカヌスの弾劾裁判でグラックスを擁護した後、娘をグラックスと婚約させた。娘がまだ幼女だったので、父親が40代になった時の子供である。グラックス家はパトリキの血統ではなかったが、裕福で政治家としても有望な家柄であった。
ティベリウスはトリブヌス・ミリトゥムとして初めて第三次ポエニ戦争でヌミディアに出陣する。クワエストルとしては義理の兄スキピオ・エミリアヌスがいた。しかしマッシニッサの軍勢に敗北、その際に際立った行動に出て敗軍が崩壊するのを防いだ。ローマに戻るとエミリアヌスがティベリウスの勇気をほめたたえ彼が元老院入りするのを推薦した。
その当時、ローマの国内事情は騒がしかった。過去数百年の間に戦争が何回もぼっ発し、軍団兵は戦争の期間に関わらず兵役を課せられていたので、自分達の農地を妻子に任せたままであった。多くの農地はうまくいかず、上流階級のもとで購入され、大規模農地経営(ラティフンディウム)として形成しつつあった。また土地によっては国によって徴用されるものもあり、ポエニ戦争後では大規模な農地、不動産が転売借用されていた。兵士たちが兵役を終えてもどれにも行くところがなくなり、ローマへ赴き無産市民と化した。
[編集] センプロニウス農地法
133年、ティベリウスは護民官に当選、この無産市民の救済に着手する。ティベリウスは土地の所有が中小の自営農民ではなく、大土地所有者のもとに集まっており、彼等のもとで奴隷を使った農地経営を行なわれている事に気付き、『センプロニウス農地法』の提案を提出する。
この法案は:
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- 戦争初期に徴集された公用地で500ユゲラ(およそ310エーカー)以上のものを没収する
という法案で、法案で適応されうる大規模な公用地は大土地所有者が、場合によっては数世代にわたって、国から購入、移住、または借用するなど事実上私有地としている場合が多かった。また、ある意味では紀元前367年に公布されながらも一度として施行されてはいなかったリキニウス法を本格的に実行するものであり、土地を失った退役兵を救済するものであった。
[編集] 元老院の反発
しかしながら元老院はこれに反発。ティベリウスはこの法案が元老院を通っては潰されるというのは目に見えていたので、直接民会に提出した。これが伝統に反するやり方として元老院の反発を大きくした。
これに対して元老院はティベリウスを計略いかけようとする。すなわちローマでは護民官が2人おり、その2人ともども法案の拒否権を持っている。そこで元老院はもう一人の護民官であるオクタウィウスを買収、グラックスが民会へ法案の投票の募る提案を出すたびに拒否するという手段に出た。そしてティベリウスはオクタウィウスを民会投票で解任、強制的に民会から退出させた。護民官による護民官の解任−この時点でティベリウスは単独の護民官となり、結果として膨大な権力を有する存在となっていた。そしてセンプロニウス農地法は可決される。ティベリウスが攻撃されるのを危惧して帰路では民会が彼を取り囲んで家まで送ったと言う。
その中で、ペルガモン王国のアッティウス王が没し王国をローマにゆだねると遺書に残した。これをティベリウスは法案のための財源として活用しようとする。この行為は今まで海外の事例に携わってきた伝統のある元老院にとって衝撃的な挑発として受け止められ、ますますティベリウスと元老院は対立を深めていった。
[編集] ティベリウスの最期
このような護民官としての逸脱した行為に対して、反対派はティベリウス・グラックスを任期の終わりに彼の反体制的な姿勢を弾劾しようとする。それに対して彼は再選を果たそうとする。再選すれば市民には軍役を短期間なものとし、法の施行者のごとく振る舞う元老院の権限を限定させると公約した。
そして選挙の日、ティベリウスは護衛に守られながらフォロ・ロマーノに現れた。そして投票の最中で暴動が勃発、ティベリウスは暴徒によって殺された。彼の遺志は弟ガイウス・グラックスに継がれる。