テミストクレス
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テミストクレス(Themistocles 、紀元前524年から520年頃 - 紀元前459年から455年頃)は、 アテナイの政治家・軍人。紀元前493年から紀元前492年まで(諸説あり)、アテナイのエポニュモス・ アルコン(執政官)を務め、アテナイをギリシア随一の海軍国に成長させ、ペルシャ戦争の勝利を導いた。
[編集] 生涯
プルタルコスによれば、彼はレオンティス部族のフレアリオイ・デーモス(アッティカ南東部、スニオン岬付近)出身である。父ネオクレス(Neokles)はアテナイ人であるが、母は諸説あってはっきりしていないが非アテナイ人らしく、混血児とされる。勤勉で聡明であったが、独善的で名誉欲が強く、アテナイの有力者たちを糾弾した。特に、アリステイデスとは生涯対立したが、プルタルコスは、哲学者アリストンの伝聞として、彼らが敵対するに至った理由は、双方がステシラオス(Stesilaos)という美少年を愛したためと述べている。
マラトンの戦い以降、大規模なペルシャ軍のギリシャ遠征を予見し、紀元前483年頃には、ラウレイオン鉱山の銀を使って三段櫂船100隻( ヘロドトス によれば200隻)の建造を決議した。この銀収入は、本来市民に分配されるものであったが、テミストクレスはアイギナとの紛争に用いる船を建造すると騙って市民を説得した。彼は、陸戦での戦闘の限界を見極め、海戦を制すればペルシャの大軍をも敗退させることができると考えたのだが、マラトンの戦いで指揮を執ったミルティアデスらはこの決定を非難した。
クセルクセス1世によるギリシャ遠征では、アテナイにおいて将軍の選挙が行われたが、民衆煽動家のエピキュデス(Epicydes)が選出されそうになったため、金銭で彼を買収し、辞退させた。クセルクセスの侵攻に対しては、将軍として主導的役割を果たし、紀元前480年のアルテミシオン海戦では一進一退の攻防を行い、サラミスの海戦においてはペルシャ海軍を撃破した。また、ペルシャ軍の再来に備えて、ペイライエウスを建設し、これとアテナイまでの間に防壁を築き、トゥキュディデスの記述によれば、籠城の際には、 ペイライエウスに避難するよう説いた。
しかし、ペルシャ戦争での功労を以って、必要以上に名誉と権力を欲したことから信用を失い、陶片追放によってアテナイを追われた。その後アルゴスに赴いたが、政敵によって反逆罪の罪に問われたのと、スパルタのパウサニアスの反乱に加担したとの嫌疑をかけられたため、ケルキュラに落ち延び、最終的にペルシャに亡命した。ここで国王に謁見するが、会ったのはクセルクセス1世とするものとアルタクセルクセスとするものがある。小アジアのマグネシアを与えられ、そこで病没した。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- ヘロドトス著 松平千秋訳『歴史(上)』(岩波文庫)
- ヘロドトス著 松平千秋訳『歴史(中)』(岩波文庫)
- ヘロドトス著 松平千秋訳『歴史(下)』(岩波文庫)
- プルタルコス著 河野与一訳『プルターク英雄伝(二)』(岩波文庫)
- 馬場恵二著『ペルシア戦争 自由のための戦い』(教育社)
- de Souza,Philip『The Greek and Persian Wars 499-386BC』Osprey Publishing
- 仲手川良雄著『テミストクレス』(中公叢書)