トマソ・カンパネッラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トマゾ・カンパネッラ (Tommaso Campanella, 1568年9月5日 - 1639年5月21日) はイタリアの聖職者、哲学者。
[編集] 生涯
14歳でドミニコ会修道院に入って托鉢修道士となり、自然哲学者のベルナルディーノ・テレージオ著『自然論』を読んでアリストテレス哲学に明確に反対するようになる。1589年にナポリに赴き、自然科学者ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタの影響のもとに、魔術・錬金術・占星術・天文学・哲学などについてその地の知識人たちと討論を重ね、1591年すでに書き上げていた『感覚哲学』を出版する。この出版はドミニコ会全体を震撼させ、宗門裁判所に召喚され、1582年8月28日の裁判により、主張を捨て1週間以内にカラブリアに戻るよう命じられる。しかしこの命令に抗してフィレンツェ・ボローニャをへてパドヴァ大学に学生として籍を置き、ガリレイなどの学者たちとの親交を深め、1593年からいくつかの著作をおこなう。この中にはその後紛失したが『カトリック教徒の君主制度』というものなどもあったという。ユダヤ教徒と信仰について議論した疑いで友人とともにローマ教皇庁の牢獄に投じられ、1595年5月16日に釈放された後、サンタ・アヴィーナ修道院で謹慎を命じられた。その間に『ルーテル派、カルヴァン派、その他の異端にたいする対話』を著した。
1597年、信仰上の疑義により教皇庁に再度捕らえられ、その牢獄で宗教改革者フランチェスコ・プッチを知りその処刑の場面にも立ち会い、その信念に殉じた死に共感をおぼえた。その年より南イタリアをスペインの影響から独立させることを志し、占星術に基づいて計算した1599年8月に起こるはずの革命に合流し、共和国家を樹立する企てに没頭。あわせて腐敗したローマ教会や修道会の改革を目指す。同志の裏切りにより事が露見して1599年9月6日に逮捕される。1601年までの審問と拷問に耐え処刑は免れたものの、狂人とみなされたカンパネッラは1626年まで投獄されることになる。1602年に主著『太陽の都』のほかにそして多くの著作と詩が書かれた。
再収監されていたカンパネッラは教皇ウルバーノ8世の好意によって1628年7月27日釈放されるが、著作の刊行準備・討論・宣教師学校の設立などの活動をやめず、著作の出版は禁じられ再逮捕の危険を感じたため、1634年12月フランスに亡命。哲学者ピエール・ガッサンディや枢機卿リシュリュー・国王ルイ13世に迎えられる。パリのサン・トノレ通りにあるドミニコ修道院で死去。
[編集] 著作(前記のほか)
- 『スペイン王国論 Monarchia di Spagna』
- 『政治警句集 Aforismi politici』
- 『天文学 Astronomia』
- 『救世主王国論 Monarchia del Messia』
- 『克服されたる無神論 Atheismus triumphatus』
- 『イタリア諸侯に捧げる辞 Discorsi ai Principi d'Itaria』
- 『諸物の感覚および魔術 Senso delle cose e lamagia』
- 『ガリレオの弁明 Apologia pro Galolaeo,1616年』(工作社,1991年)