トレントンの戦い
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トレントンの戦い | |
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デラウェア川を越えるワシントン |
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戦争: アメリカ独立戦争 | |
年月日: 1776年12月26日 | |
場所: ニュージャージー州トレントン | |
結果: 大陸軍の一方的な勝利 | |
交戦勢力 | |
大陸軍 | イギリス軍(ドイツ人傭兵) |
指揮官 | |
ジョージ・ワシントン | ヨハン・ラール† |
戦力 | |
2,400 | 1,400 |
損害 | |
死者 5 傷者 2 |
死者 23 傷者 92 捕虜 913 |
トレントンの戦い(トレントンのたたかい、英:the Battle of Trenton)はアメリカ独立戦争中の1776年12月26日にニュージャージー州トレントンで起こったアメリカ大陸軍と主にドイツ傭兵部隊で構成されるイギリス軍との戦いである。デラウェア川の向こうに撤退していたワシントン将軍の率いる大陸軍が突如渡河してトレントンに駐屯していたドイツ傭兵部隊を殲滅し、次週に起こったプリンストンの戦いへとつないでいくことになる。
目次 |
[編集] 発端
トレントンはヨハン・ラール大佐率いるドイツ人傭兵部隊3個連隊、その数1400人に占拠されていた。 ワシントン軍2400人は2つの部隊に分かれていた。ナサニエル・グリーン少将率いる部隊は北から、ジョン・サリバン少将率いる部隊は西から攻め入った。南から攻める3つめの部隊もあったが、天候のために渡河できなかった。
ドイツ人傭兵部隊はクリスマスで酒を飲んでおり、戦闘の準備ができていなかったと言われるが、これはありそうにない話である。アメリカ大陸軍の勝利はワシントンの放ったスパイであるジョン・ハニーマンがトレントンの情報を集め、ドイツ人傭兵部隊に偽情報を掴ませたことによるところが大きい。彼はドイツ人傭兵部隊の武力を評価する責任者の立場にあり、アメリカ大陸軍は混乱していて攻撃できる状態ではないと信じ込ませていた。デラウェア川の天候が渡河できるような状態ではなかったことも急襲を成功させた要因である。 ドイツ人傭兵部隊は毎晩近くの敵軍を見張る斥候を放っていたが、その夜は嵐のために放ってはいなかった。
[編集] 戦闘
クリスマスの夜11時に始まった吹雪のために、アメリカ大陸軍がデラウェア川の東岸に達したのは12月26日の午前3時であった。吹雪はなお続いていたために戦闘が始まったのは午前8時であり、9時過ぎまで続いた。トレントンにはキング通りとクィーン通りの2つのメインストリートがある。ラールは、ボーデンタウンに駐屯し上官であるカール・フォン・ドノープ伯爵に2つの通りの上に砦を築くよう命令されていた。フォン・ドノープの軍隊はボーデンタウンには居らずマウント・ホーリーに向けて南に行軍していたが、、22日にはジャージー南部の暴動鎮圧、23日にはニュージャージ市民軍殲滅にあたっていた。ドイツ人傭兵のパウリ大尉が先述の命令を果たすためにトレントンに派遣されていたが、砦を作ることなくラールによって送り返されていた。大陸軍が襲ってくるかもしれないと警告された時、ラールは「来たらいいさ。壕は必要ない。銃剣で十分だ」と答えたという。
ワシントンが市内に入ってくると考えられるトレントンの北9マイルのペニントンには、ドイツ人傭兵部隊によって小さな監視蔽が設けられていた。アメリカ大陸軍の大部隊が行軍してくるのを見たとき、ペニントン監視部隊の指揮官ヴィーダーホルト中尉は撤退を開始した。トレントンまで引くと町の周囲を守る他の部隊のサポートを受けられるようになった。デラウェア川を見張っていたもう一つの部隊も急行し、川から町への道ががら空きになった。ジョン・サリバン将軍率いる部隊はこのルートでトレントンに入り、アッサンピンク・クリークを渡るのに苦労していた。そこはトレントンから南へ出て行く唯一のルートであり、ドイツ人傭兵部隊が逃げ出すのを押さえようと考えていた。
町の北縁の兵舎にいたグロートハウゼン中尉率いる約35名のドイツ人傭兵部隊若年兵は、サリバンの部隊前衛がトレントンに入ってくるのを見てアッサンピンク橋を渡ってトレントンを離れた。ゆっくりと3つの守備連隊が形成され戦闘に入った。ラールの副官ビール中尉はパウリがその月の早くに砦を築くはずだったメインストリートの交差するV地点を大陸軍が占拠するのを見てやっとその指揮官魂を起こした。大陸軍は素早くそのV地点を確保し大砲でドイツ人傭兵部隊が通りに展開するチャンスを奪った。その部隊の残りと川の近くにいた他の部隊がドイツ人傭兵部隊を包囲するべく動いた。 ラールは彼の連隊とシェッファー中佐率いるロスバーグ連隊の将兵を町から脱出させ兵を立て直して町の再確保を試みようとしていた。この時までに大陸軍は町の主要な建物を占拠しており、ラールの連隊に肉薄していた。この連隊が崩れてロスバーグ連隊に逃げ込み混乱が深まった。2つの連隊は町の南の果樹園で包囲されており、硝煙の中から和平交渉を勧める太鼓が叩かれていた。ラールは鞍の上でぐったりしていた。彼は致命傷を負っていた。
アッサンピンク・クリークではデコー中佐率いるクニプハウゼン連隊が橋の待ち伏せを受けて包囲されていた。 この連隊は他の部隊よりも先に降伏した。大陸軍はほんの一握りが傷つき、行軍中と次の夜に2人が低体温で死亡したのみであったのに対し、ドイツ人傭兵部隊は犠牲者114人うち少なくとも23人が死亡、913人が捕虜となった。 致命傷を負ったラールはその日の内に死んだ。ドイツ人傭兵部隊の4人の将校すべてが戦闘で殺された。ロスバーグ連隊は英国軍から外された。クニプハウゼン連隊の一部は南に脱出したがサリバンの部隊に200名が大砲や物資とともに鹵獲された。
[編集] 余波
正午までにワシントンの部隊は捕虜と鹵獲品を携えてデラウェア川を越えペンシルバニアに戻った。この戦いは大陸軍が正規軍を破ることができるということで大陸会議に新たな自信をもたらした。更に大陸軍に新たな志願兵を募ることもできた。大陸軍は訓練されたヨーロッパの軍隊とその年早くにニューヨークを落とされた時に抱いたドイツ人傭兵部隊に対する恐れを克服した。
この攻撃の時にフォン・ドノープの部隊にあってマウント・ホーリーに居たドイツ人傭兵部隊のヨハン・エヴァルト大尉は後に大陸軍について次のように述べている「彼らには防衛力の栄誉を与えるべきだ」
わずか2人の大陸軍兵が負傷したが、これはドイツ人傭兵部隊砲兵が銃を使わないうちに掴まえてしまおうとする行動の中で起こった。これらの負傷者は士官である。一人はウィリアム・ワシントン(将軍のまたいとこ)であり両手に重傷を負った。もう一人は若き中尉ジェームズ・モンローであり、後のアメリカ合衆国大統領である。モンローはマスケット銃で左肩を撃たれ動脈を切断されて出血がひどく戦場から担ぎ出された。軍医のジョン・リカーが動脈を止血して出血による死を食い止めた。
有名な絵画である「ワシントンのデラウエァ渡河」について少し述べよう。この絵ではワシントンがデラウェア川を渡るときに船の上に仁王立ちになっているが、歴史的な正確さと言うよりも象徴的な意味が強い。なぜならこの時の川水は氷のようであり、危険極まりないものであった。またモンローが持っている旗は戦いの6ヶ月後に作られたものである。渡河は夜明け前に行われている。ワシントンが立っていたことを疑う者も多いが、多くの学者は彼らが皆異なるタイプの船の上ではあるが立っていたと信じている。それにも拘わらずこの絵は合衆国の歴史の象徴になってきた。
[編集] 参照
- Fisher, David Hackett. Washington's Crossing. Oxford University Press USA, 2004, 576 pages. ISBN 0195170342
- Ketchum, Richard. The Winter Soldiers: The Battles for Trenton and Princeton. Owl Books, 1999, 448 pages. ISBN 0805060987