ドイツキリスト教民主同盟
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ドイツキリスト教民主同盟(Christlich-Demokratische Union Deutschlands、略称:CDU)は、1945年に結成されたドイツ連邦共和国の政党である。中道右派のキリスト教民主主義・保守政党であると理解されている。歴代党首のうちコンラート・アデナウアー、ルートヴィヒ・エアハルト、クルト・ゲオルク・キージンガー、ヘルムート・コールが連邦首相となって政権を担当。2005年11月からはアンゲラ・メルケル党首が連邦首相となって政権与党となっている。このキリスト教民主同盟とドイツ社会民主党(SPD)がドイツにおける二大政党である。
連邦議会 (Bundestag) では、バイエルン州のみを地盤とするキリスト教社会同盟 (CSU) とともに統一会派(CDU/CSU)を組み、ドイツ社会民主党 (SPD) とともに、議会内で二大勢力をなしている。なお、CDUはバイエルン州では活動していない。
[編集] 歴史
CDUの歴史は1945年に始まる。この年6月、米英仏ソ4大国に分割されたうちソ連占領地区において、最初のキリスト教民主同盟の組織が結成・占領軍の政党認可を受けた。
ワイマール時代にブルジョア諸政党の分裂がナチスの伸張をもたらしたという反省から諸政党の大合同が目指され、その際結党の理念となったのがキリスト教博愛主義であった。しかし、新設の政党のため各地で発足した同党の組織は政策・組織などもバラバラであった。西側では1947年にコンラート・アデナウアーの主導下に作成されたアーレン綱領が党としての一体性をもたらしたが、組織としては1950年まで全国指導部や党首をもたなかった。東側では主要な指導者であったシュライバー、ヘルメスが1945年にソ連占領軍により解任された後、ヤコブ・カイザーが指導者となった。カイザーはアデナウアーに並ぶ理論家・指導者であり、アデナウアーの西側偏重・東西分裂促進的な政策に強く反対したが、彼も1947年にソ連軍により解任され、西側に亡命した(後、アデナウアー政権で全ドイツ問題相となる)。カイザーの解任によって東側のCDUはドイツ社会主義統一党の完全な衛星政党となり、東ドイツにおいてはまったく無力な存在であった。東西統一後、東側の党はようやく西側と合流した。
コール首相は東西統一の首相として名声を得たが、16年におよぶヘルムート・コール政権がSPDに敗北して政権を失うと、コール氏の首相在任中の闇資金疑惑などもあって支持が低迷。2002年の総選挙でもSPDが支持率を落としたにも拘らず政権を奪還できなかった。しかし、SPDのシュレーダー政権の下でも失業問題が改善されず、経済も不調なことなどから国民の支持を集め、各州議会の選挙では次々にSPDを破るほどになった。
2005年、シュレーダー首相が、連邦議会の解散に踏み切った際には世論調査でも自由民主党(FDP)と合わせればCDU/CSUは過半数の支持率を得ていた。しかし、選挙戦終盤になって勢いが失速。9月18日の総選挙では、CSUと合わせて第1党にはなったものの改選前より議席を減らし、SPDとはわずか3議席(その後、候補者死亡により投票が繰り延べられていたドレスデンの選挙区で勝利したので4議席差)となり、勝ったとは言いがたい状態になり、FDPと合わせても過半数に届かなかった。このため、緑の党と連立交渉を行うが失敗。結局SPDとキージンガー政権以来の「大連立」を組んで、アンゲラ・メルケル党首がドイツ初の女性首相となった。しかし、基本政策の違う左右連立での政権運営は厳しいものになると予測されている。
[編集] 歴代党首
- コンラート・アデナウアー(Konrad Adenauer) 1946年-1966年
- ルートヴィヒ・エアハルト(Ludwig Erhard) 1966年-1967年
- クルト・ゲオルク・キージンガー(Kurt Georg Kiesinger) 1967年-1971年
- ライナー・バルツェル(Rainer Barzel) 1971年-1973年
- ヘルムート・コール(Helmut Kohl) 1973年-1998年
- ヴォルフガング・ショイブレ(Wolfgang Schäuble) 1998年-2000年
- アンゲラ・メルケル(Angela Merkel) 2000年-
[編集] 外部リンク
- 公式サイト(ドイツ語、英語)