ドゥニ・ディドロ
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ドゥニ・ディドロ(Denis Diderot、1713年10月5日 - 1784年7月31日)。フランス啓蒙思想の作家・哲学者。
思想的には、初期の理神論から唯物論、無神論に進んでいる。「盲人に関する手紙(盲人書簡)」(1749年刊)の唯物論的な主張のため投獄されたこともある。
英語に堪能で、ル・ブルトン書店からイギリスで刊行され成功したチェインバースの百科事典のフランス語版を依頼されたことが、18世紀を代表する出版物「百科全書」の編纂・刊行につながった。事業としての「百科全書」が狙っていた主要な対象は新興のブルジョワ階級であり、その中心は当時の先端の技術や科学思想を紹介した項目だが、それらにまじえながら、社会、宗教、哲学等の批判を行ったため、「百科全書」を刊行すること自体が宗教界や特権階級から危険視された。ディドロは、たびたびの出版弾圧、執筆者の離散を跳ね返し、「百科全書」(1751年-1772)の完結という大事業を成し遂げた。(百科全書はフランス革命(1789-1794年)を思想的に準備したともいわれる)
ロシアの女帝エカチェリーナ(エカテリーナ)2世との個人的な交流でも有名。1765年、娘の結婚資金を確保するため、ディドロは蔵書をエカチェリーナ2世に売り渡したが、その契約は、ディドロの生存中はそれら蔵書を手元において自由に利用できるという条件付きであり、実際にはエカチェリーナからの資金援助という性格をもつ。そうした援助にむくいるため、「百科全書」完結後の1773年、ロシアを訪問した。
[編集] 著作
「百科全書」に寄稿した項目や「盲人書簡」(前出)のほかに、「修道女」(1760年執筆)、「ラモーの甥」(1761年執筆開始)、「ダランベールの夢」(1769年執筆)、「ブーガンヴィル航海記補遺」(1772年執筆)、「運命論者ジャックとその主人」(ロシア滞在中に執筆)、「哲学者セネカの生涯とその著作」(1778年刊)などがある。没後に刊行された著作も多く、また小説の大半は実験的なもので、明確なストーリーをもたない。
グリムの「文芸通信」に断続的に掲載されたサロン展の批評(サロン評)によって近代的美術批評の祖ともされる。その批評論は「絵画論」Essai sur la peinture(1766年刊)に結実した。
没後の1798年に初の全集が刊行された(全15巻)。
[編集] 参考文献
「思想」1984年10月号、特集「ディドロ - 近代のディレンマ」(岩波書店)