ニクソン・ショック
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ニクソン・ショックとは、1971年にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンの政権が電撃的に発表した、既存の世界秩序を変革する2つの大きな方針転換を言う。両者を併せて「二つのニクソン・ショック」と呼ばれることもある。
- 第1のニクソン・ショック(ドル・ショック)は、1971年8月15日に発表されたドルと金との交換停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終了と変動為替相場制突入を告げた声明。本項で説明。
- 第2のニクソン・ショック(ニクソン訪中宣言)は、1971年7月15日に発表されたニクソン大統領の中華人民共和国への訪問を予告する宣言から、翌1972年2月の実際の北京訪問にいたる一連の外交をいう。詳しくは米中国交樹立、ニクソン大統領の中国訪問などを参照。
ニクソン・ショックとは、1971年アメリカ合衆国が、それまでの固定比率によるドルと金の交換を停止したことによる、国際金融の枠組みの大幅な変化を指す。ニクソン大統領(当時)が国内のマスメディアに向けこの政策転換を発表したことにより、ニクソンの名を冠する。ショックと呼ぶのは、この交換停止はアメリカ議会にも事前に知らされておらず極めて大きな驚きを与えたこと、またこの交換停止が世界経済に甚大な影響を与えたことによる。ドル・ショックとも呼ばれる。
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[編集] 背景と顛末
アメリカは1960年代後半から、ベトナム戦争や「偉大な社会」政策による財政赤字によりほぼ完全雇用の状態になり、インフレーションの加速や貿易赤字拡大などもあって、景気は過熱気味であった。
当時の通貨体制は、ドルと金との交換比率を固定し、各国通貨はドルと交換比率を固定することで通貨の裏付けとするブレトン・ウッズ体制下であった。
景気過熱で経常収支が悪化するアメリカは、やがて固定レートを変更しドルを切り下げるであろうと予測された。このため1969年頃から経常黒字国であった日本の円やドイツのマルクに対して投機が殺到するようになった。固定相場制度においては中央銀行が無限の為替を保証するため日本銀行やブンデスバンク(ドイツ連邦銀行)はドルを買い支えることになった。買い支えるということは、市中に円やマルクが放出されるということになる。マネーサプライが増えるため金利は抑制され、日本やドイツの経済も過熱気味になることになる。
ドイツは、戦前にハイパーインフレーションで経済を疲弊させた記憶があるため、ブンデスバンク(ドイツ連邦銀行)はインフレーションを親の敵のように扱い未然に防ごうとしていた。
また、日本も高度経済成長末期において巨大プロジェクトが目白押しであったため、アメリカの過剰輸入・資本輸出によるインフレーションは厄介であった。
このため、元凶であるアメリカの過剰財政支出への非難が強まることになる。
ニクソン政権はベトナム戦争と国内雇用維持のために財政支出を必要としており、ジレンマに悩まされた。そのように経済政策へ制約を課しているのは、とりもなおさず固定相場制度を軸にした通貨体制であった。そのためニクソン政権はブレトンウッズ体制放棄を決定した。ドイツはニクソンの発表後、金融政策の独立性が高い変動相場制度へ移行した。
ドル円相場などは一旦ドルが切下げられ固定相場制度が維持されたが、通貨価値保持が優先されなかったドルの売り浴びせは終わらず、ドル円間も変動相場制度へ移行した。
本来、「財政赤字とインフレと貿易赤字」という不均衡を解消する合理的手段は財政赤字の削減である。「財政赤字とデフレと貿易赤字」という組み合わせであれば合理的手段は通貨安である。このときのニクソン政権が取るべきであった政策は、とりもなおさず財政赤字の削減であり、ベトナムからの撤退(ベトナム戦争中)であった。しかし、軍事的地位の保持や、戦後アメリカ経済政策の究極的目標である完全雇用を前にして、ニクソン政権は通貨安という手段をとることになった。
ニクソン・ショックは、その後の1970年代の政策迷走、現代にも残る莫大な貿易赤字という不均衡を生み出すスタート地点となる。
[編集] 概要
1971年8月15日、ニクソン大統領により、テレビとラジオで全米に向けて声明が発表された。主な要点は以下の通り。
- 減税と歳出削減
- 雇用促進策
- 価格政策の発動
- 金ドル交換停止
- 10%の輸入課徴金の導入
特に、メインは金ドル交換停止である。これにより第二次大戦後の通貨の枠組みであったブレトン・ウッズ体制が終焉を迎えた。また世界を揺るがす事件が、一国の大統領の独断(アメリカ議会への提案も事前説明も無かった)で実施されたことも特筆すべき事柄である。8月15日を選んだのは、議会が夏で休会であること、市場への影響の少ない日曜日だったことが理由とされている。また、この日は対日戦勝記念日(8月14日)の翌日であり、声明が明らかに高度経済成長を遂げた敗戦国(中でも日本)を強く意識していることから、アメリカなりの意図があるといわれている。
[編集] ニクソン・ショック以後
1971年12月に、ワシントンのスミソニアン博物館で各国の蔵相会議が開かれる。ここでドルと金との固定交換レート引き上げ、ドルと各国通貨との交換レート改定が決定される(スミソニアン体制)。日本円のレート改定会議は順番が最後であり、ほとんど時間は用意されなかった。その中で円については、360円から308円へ、16.88パーセント切り上げることが提案された。この切り上げ幅は諸国通貨の中でも最大で、日本の交渉団の予想も大幅に上回るものであった。そして、日本の交渉団が言い淀み思案している間に提案は決済され会議は終結した。
こうしてドルは大幅な切り下げに成功したが、アメリカの貿易赤字は拡大。固定相場制度への信頼性が低下したことから1973年には、主要国ほぼ全てが変動相場制へと移行した。
その後1976年1月、ジャマイカのキングストンで行われたIMF(国際通貨基金)暫定委員会において、変動相場制が正式に承認された(キングストン協定)。
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