ニコライ・レザノフ
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ニコライ・ペトロヴィチ・レザノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, 1764年4月8日(ユリウス暦3月28日) - 1807年3月13日)は、ロマノフ王朝時代のロシア人の外交官である。江戸時代後期に遣日使節として日本へ来航した。
サンクトペテルブルクに生まれる。14歳のころには既に5ヶ国語をマスターしていたといわれる。1778年、砲兵学校を出て近衛連隊。1782年には退役して地方裁判所の判事となり、1787年にはペテルブルク裁判所勤務、海軍省次官秘書などを務め、1791年には官房長となる。1795年には毛皮商人のグリゴリー・シェリホフの娘アンナと結婚。
1799年には北太平洋で営業していた露米会社という通商会社を経営する。宮廷に働きかけ、日本人漂流民の津太夫一行を送還する名目で、遣日使節としてロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えた正式な使節団となる。レザノフは1792年に日本人漂流民の大黒屋光太夫一行を返還する目的で通商を求めたアダム・ラクスマンと、日本の江戸幕府老中職の松平定信との間に交わされた国交樹立の約束をまとめるため、通行許可証である信牌を携えてペテルブルクから出航する。
旗艦ナジェージタ号の艦長イヴァン・クルーゼンシュテルンと対立しつつ、1804年(文化元年)9月に長崎の出島に来航する。交渉相手の定信は朝廷との尊号一件により老中職から失脚し、幕府は外交能力を失っており、レザノフたちは半年間出島に留め置かれるこのになる。翌年には長崎奉行所において長崎奉行遠山景晋(遠山金四郎景元の父)から装備も食料も不十分のまま通商の拒絶を通告される。
1805年4月に長崎を去り、帰途に多数の死者を出して帰国。武力をもっての開国以外に手段はないと上奏し、のち撤回したが、部下のフヴォストフが単独で1806年に樺太の松前藩の番所、1807年に択捉港ほか各所を襲撃する(フヴォストフ事件、文化露寇)。レザノフはペテルブルクに帰還する途中の1807年疫病により死去する。
フォヴォストフ事件により日露関係は緊張し、1811年にはゴローニン事件が発生する。
[編集] 関連項目
[編集] 関連著作
- 『日本滞在日記(1804年-1805年)』 著:ニコライ・レザーノフ 訳:大島幹雄 岩波文庫 ISBN 4003347919
カテゴリ: ロシアの探検家 | ロシア・ソビエト連邦の外交官 | 1764年生 | 1807年没