ヌルハチ
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アイシンギョロ ヌルハチ(愛新覚羅 努爾哈斉 明の嘉靖三十八年正月五日(1559年2月21日) - 明の天啓六年/後金の天命十一年八月十一日(1626年9月30日) 在位1616年 - 1626年)は中国後金の創始者。清の初代皇帝。廟号は太祖。明や朝鮮では努爾哈赤と記される。満州族出身。
ヌルハチが生まれた頃の女真族は建州女真5部・海西女真4部・野人女真4部に分かれており、互いに激しく抗争していた。その抗争の原因は主に明に対する朝貢の権限を求めてである。朝貢によりこの地方の特産である朝鮮人参や動物の毛皮(貂など)の売買する事で巨利を得ることが出来た。これを利用して明は朝貢の権利を分散させる事で飛びぬけて力の強い部族を出さないようにし、また互いに権利を争って抗争するように仕向けた。
しかし女真の抗争があまりにも激しすぎると思った明の遼東司令官李成梁は一つ明が制御できる程の大きな勢力を作り、その後ろ盾になる事で女真を治めようとした。これに選ばれたのが建州女真の中のヌルハチである。ヌルハチが選ばれた事の理由としてはヌルハチの部族は祖父の代から明に対して友好的であったからであろう。ヌルハチの祖父と父はある戦闘中に明軍に協力していたにも拘らず、誤って明軍に殺されたと言う事があり、これが李成梁の負い目となってヌルハチに助力した事も考えられる。
李成梁の思惑は上手く行き、ヌルハチは女真の中の大勢力となり、1589年(万暦十七年)には建州女真5部を統一した。それと同時に李成梁の懐に入る賄賂の量も大幅に増えた。これに気を良くしたのかヌルハチの統御の事を忘れてしまっていた。
ヌルハチの急激な台頭に危機感を抱いた海西女真は結束してヌルハチに領土割譲を求めたがヌルハチはこれをはねつけた。なおこの頃から自らの事を満州と呼び始めたようである。
1593年(万暦二十一年)、ヌルハチ率いる満州軍は海西女真を中心とした九部族連合軍と激突し、完勝した。この戦いはグレの戦いと呼ばれ、これにより女真の諸部族はヌルハチに従うものが多くなり、明はヌルハチに対し竜虎将軍の官職を授けた。李成梁はこの二年前に汚職を弾劾されて更迭されている。
この時期は豊臣秀吉による文禄・慶長の役で明がその対応に忙殺されていた事もあり、明による介入は少なかった。そこをついて1599年にヌルハチは敵対した海西女真のハダ部を滅ぼした。この前年に秀吉軍が撤兵した事もあり、ようやく明はヌルハチに危機感を抱き始め、海西女真のイェヘ部の後押しをする事でヌルハチに対抗しようとした。
1616年(万暦四十四年)、ヌルハチはハーンの地位に着き国号を金とし、元号を天命とした。前後してヌルハチは女真の民族名を満州(manju, 満洲)に改め、満州文字を定め、八旗制を創始して国家の基礎を打ち立てた。
1618年(天命三年)、ヌルハチは七大恨と呼ばれる文書を掲げ、明を攻めることを決定した。この文書の中には明がイェヘに味方して、満州につらく当たる事。祖父と父が明に誤殺されたことなどが書かれている。明はイェヘ部と朝鮮の兵を配下に47万(実数は10万から20万程度と推察される)と号する兵を満州討伐に送り出し、翌年撫順近くのサルフで激突した。満州軍は10万と言っていたがこちらも実数は半分以下と思われ、数の上からでは満州の不利であったが、明の将軍が功を焦って突出し、各個撃破できた事と戦闘中に砂塵が舞い上がり、これに乗じて明へ奇襲をかけることが出来た事などが幸いし、大勝した。これはサルフの戦いと呼ばれる。
サルフで明軍に大打撃を与えたヌルハチは、後ろ盾を失ったイェヘを吸収し、完全に女真を統一した。1621年(天命六年)、勢いに乗ったヌルハチは瀋陽・遼陽を相次いで陥落させ、遼陽に遷都し、ついで瀋陽に遷都した。
1626年(天命十一年)、連戦連勝のヌルハチは明の領内に攻め入るために山海関を陥落させようとする。ところがその手前の寧遠城に名将袁崇煥がポルトガル製の紅夷大砲を大量に並べて満州軍を迎え撃った。紅夷大砲の威力に満州軍は散々に討ち減らされ退却した。この時にヌルハチは傷を負い、これが元で死去した。遼寧省瀋陽市東の郊外の福陵に葬られた。
ヌルハチは後継者を定めずに死んだため、死後に揉めたがホンタイジが後を継ぐ事になった。
ヌルハチはあくまで明からの独立を目指しただけで明を征服しようと思ったことはなかったと言われる。後継者を定めなかったのも今までの部族合議体制を維持しようとした事の現われとも見られる。
愛新覚羅のアイシンとは、満州語で金を意味する。満州族は自分達の先祖の栄光である金から金姓を名乗っていたと思われる。(学説によると満州民族は、金姓を名乗ることが多かった)
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