バハラーム1世
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バハラーム1世(Bahram I、生年不詳-276年 在位273年-276年)は第二ペルシア帝国、ササン朝ペルシアの第四代目の君主である。バハラーム(バフラームまたワラフラーン)とも呼ばれる。帝位に就くまではギーラーンの王としてカスピ海南岸一帯を統治していた。276年に病没後、息子のバハラーム2世に継承する。
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[編集] 人物像 低い血統から皇位へ
[シャープール1世]の碑文、パフラヴィー語の文章によると、バハラーム1世はシャープール1世の次男であると記されている。しかしギリシアの歴史家やタバリー en:Muhammad ibn Jarir al-Tabariの記録では孫になっている。
他の三人の王子(ホルミズド1世、シャ-プール、ナルセ1世)を生んだ妃と比べ、バハラームを生んだ妃は地位が低かったか妾だったと思われる。四人の王子達のなかでも、彼の扱いは低く、シャープール1世の碑文中、彼の名だけは聖火によって顕彰されていなかった。さらに彼が統治するギーラーンは帝国内でも他の兄弟が赴任したものと比べ地位が低い。諸王の筆頭に位置するアルメニア、帝国首都クテシフォン南方に広がる肥沃なメセネen:Mesene、帝国東方の大部分を掌握するサカに比べ、明らかに戦略的重要性は低かった。
バハラームという名は、神の名前を付けることによって加護を受ける意味合いがあるテオフォリックネーム en:Theophoric nameである。中世ペルシア語でVarahrän en:Vahramは勝利という意味のゾロアスター教の神である。
確認できる文献で最も早いバハラーム1世への言及はナグシェ・ラジャブ en: Naqsh-e Rajabでの祖父アルデシール1世による戴冠式である。ここではアルデシールとアフラマズダの前ではより小さい人物として描写されている。そしてVahram神の前でお辞儀をして敬意を表している。同じ様な絵で、イノシシのようなモチーフで印章や王冠に描いている。明らかに勝利のヤザタ(恐らく戦争の勝利を司る英雄神、ウルスラグナのことだと思われる)との繋がりを強化しようとする意図であった。
四人の王子達のなかで、彼は最も信仰心に厚く、敬虔なゾロアスター教徒として名をはせていた。兄ホルミズド1世が急死したとき、次の皇帝は三男メセネ王シャープールか四男サカ王ナルセが有力であった。血統で劣る彼はマニ教の流行を憂慮するゾロアスター教団と協力することで帝位に就く。
シャープール1世、ホルミズド1世は寛容な宗教政策を取っていたためマニ教の影響力が強くなりつつあった。ゾロアスター教の最高権力者カルティールは、メセネ王シャープールの支持を得ることに成功。よってバハラーム1世がナルセを抑えて後を継いだ。ナルセはその代償としてアルメニア王位についた。
西方国境のアルメニアでローマ帝国と対峙するナルセは、強大な軍を支配下においているだけではなく、声望の点でもず抜けていた。彼の動向次第では皇太子バハラームの地位が脅かされないとも言えなかった。よってメセネ王シャープールの娘と皇太子バハラームを結婚させ、ゾロアスター教団とのつながりを強化しその地位を磐石なものにした。
低い血統である彼は他の手段によって自己の権威を高めなくてはならず、名声の高い兄ナルセの存在と息子への安定した継承が次のような政策へと繋がった。すなわちゾロアスター教一尊化の始まりとマニ教への弾圧といった状況は彼の政治的環境から生まれたものだといえる。在位期間が短かったということもあるが、パルミラなど対ローマ外交で有力な策を打ち出せなかったことは強力な軍事指導能力を持つナルセ1世を待望させることになってしまった。
[編集] マニ教の迫害
カルティール en:Kartirの進言の下、バハラームはマニ教の開祖、預言者マニを死刑にした。マニはシャープール1世にShapurganの著を献納している。マニは刑が執行される前に刑房でそのまま死んだ。しかし、皮をはがされたマニが生きているという噂は残った。ワラが詰め込まれたマニの皮が、時々シャープールの都市の門の一つに吊るされていると言われた。
バハラーム1世の統治政策上、預言者の死刑は必然的にマニ教の迫害へと繋がっていく。マニ教はその当時、比較的良く確立されていた。信教指導者のヒエラルキーが構成され、多くの聖職者によって支えられていた。十二使徒、七十二の司教などからなっていた。彼らの多くがゾロアスター教の聖職者の下に引きだされた。カーティラを中心とした聖職者はマニ教を異端と考えマニ教の追随者は処刑されるか何らかの罰を受けた。
[編集] 対ローマ
ローマは強力な王シャープール1世の死から、立て続けにホラミズド1世も亡くなったこともあって、バハラーム1世を強力な君主であると認識しなかった。バハラーム1世は対ローマ外交をこなしたとは言えなかった。オデナトゥス en:Odaenathusの妻ゼノビアは、幼少のオデナトゥスの息子の名でパルミラの摂政としての地位を確立した。オデナトゥスは小さな王国をローマ帝国が危惧するまで拡大させた。よってローマ皇帝アウレリアヌスは273年パルミラ攻略を命ずる。ゼノビアはバハラームに助けを求めバハラームは緊急部隊を派遣した。
この助けは実らず、ゼノビアは敗れ国外逃亡を余儀なくされた。バハラームに政治亡命を要請しに行くところをササン朝の領域に入る前に追っ手に追いつかれ連れ戻された。
バハラームはローマ皇帝に和平要請をし、全権公使をローマへ急派する。アウレリアヌスはバハラームの贈り物を受け取り、休戦協定を受諾する。よってアウレリアヌスがローマで勝利を祝った274年、ペルシア側の捕虜がなかったにもかかわらず、ペルシア公使は顔を出さなくてはならなかった。この現状に対する部下の不満を抑えるのにバハラームは苦労した。
一年たたずに275年、アウレリアヌスは宣戦布告しササン朝の領域に侵入する。ボスポラスにほぼ到達したとき、秘書の陰謀によってペリントスとビザンティオンの間の小さな駐屯地でアウレリアヌスは275年の春に暗殺される。
[編集] 外部リンク
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