バンク・オブ・アメリカ
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バンク・オブ・アメリカ (Bank of America(BofA) NYSE:BAC) は、アメリカ合衆国で最大の預金を保有している銀行である。ノースカロライナ州のシャーロット市を本拠地とし、バンク・アメリカ・コープ社が所有している。「バンカメリカ」あるいは「バンカメ」の略称で呼ばれることもある。
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[編集] 歴史
バンク・オブ・アメリカ・コープ社は1998年、ネーションズ・バンク社とバンク・アメリカ社の合併によって生まれた。
[編集] ネーションズ・バンク社の歩み
バンク・オブ・アメリカの最も先駆けであるコマーシャル・ナショナル・バンク (CNB) は、1874年シャーロットで商業銀行として開店される。
1957年、シャーロットを本拠としたアメリカの信託会社を買収した後のCNBの総資産は2億3400万ドルに上り、アメリカン・コマーシャル・バンク (ACB)を作る 。1960年、シャーロットを本拠としたセキュリティ・ナショナル・バンクを買収の後、ACBはノース・カロライナ・ナショナル・バンク (NCNB) に名称を変更。
NCNBは1982年初めて、ノースカロライナ外の地域に経営を拡大した。フロリダのレイクシティを本拠とした最初に州間にまたがったファースト・ナショナル・バンク・オブ・レイクシティを買収したときであった。翌年、ヒュー・マックコールがNCNBのCEOとなる。
1988年、FDICから倒産したファースト・リパブリック・オブ・テキサスダラスを買収した。その時のNCNBの財産は600億ドルだった。NCNBはNCNBコーポレーションに名称が変更。ジョージア州のアトランタ市を本拠地としたC&Sソブラン・コープを買収した時、ネーションズ・バンクに名称が変更。相次いだ合併のおかげで総資産は1180億ドルまで伸びる。
1996年、ミズーリ州のセントルイスを本拠地としたボートメンズ・バンクシェアーズを96億ドルで買収した。2250億ドルの総資産で、ノースカロライナからニューメキシコ州まで2600の支店がある南アメリカにおいて最も規模が大きい銀行に成長する。
翌年、ネーションズ・バンクはフロリダ州の最も大きい銀行と、ジャクソンビルを本拠地としたバーネット銀行を155億ドルで買収した。会社全体の総資産は2840億ドルにまで成長。
[編集] バンク・アメリカ社の歩み
1904年、バンク・アメリカはアマデオ・ギアニーニによって、バンク・オブ・イタリアの商号で、労働者階級-特にサンフランシスコの北海岸に住むイタリア系移民のための銀行として、サンフランシスコに設立された。1906年のサンフランシスコ地震にも生き延び、翌日からは市街の再建ビジネスに融資を提供する最初の銀行にもなる。ギアニーニは、1949年の死まで、会長として陣頭指揮を執り、銀行を大きくした。1929年、カリフォルニア州サンペドロのバンク・オブ・アメリカ・ロサンゼルスを買収した。概ねネームバリューを得たかったのだろうと言われる。
当時、国法銀行(National Association。連邦政府から認可を受けて営業する商業銀行。州が認可する州法銀行に対する)の多くは、商号の末尾にN.A.と付していた。しかし、合併新銀行には旧来の銀行とは異なった機能が存在することを強調したかったギアニーニは、新銀行の商号の末尾をNT&SA(National Trust and SavingAssociation)として、このユニークな慣習には従わなかった。かくて、アメリカで唯一NT&SAと名乗る新生バンク・オブ・アメリカは、カリフォルニア州最大の商業銀行となった。
多くの銀行家がそうであるように、ギアニーニもまた、持株会社トランスアメリカを設立し、西部各州への銀行網の拡大や、保険産業への進出に力を費やした。しかしこのことは、銀行業とそれ以外の兼業を禁じた1956年銀行持株会社法(Bank Holding Company Act of 1956)の制定につながり、バンク・オブ・アメリカは保険事業をトランスアメリカに譲渡。さらにカリフォルニア州外の銀行業務を、やはり新たに設立されたファースト・インターステート・バンコープ(1996年ウェルズ・ファ-ゴに吸収)に譲渡せざるを得なかった。バンク・オブ・アメリカが再びカリフォルニア州外での商業銀行業務を許されたのは1980年代になってからである。
カリフォルニア州は第二次世界大戦後、最も急速に経済成長を遂げた州であったため、当座預金の引き出し率が最も高かった(第二次大戦で戦った兵士の給与の支払に銀行が利用されることも多かった)。銀行は殺到する小切手の処理に追われた。バンク・オブ・アメリカとて例外ではなかった。
1949年当時、銀行窓口は午後2時には閉じていた。終業時間の午後5時までにその日の帳簿を締め切らなければならなかったためである。処理の多さに対応するため、バンク・オブ・アメリカは情報処理技術の革新に力を注いだ。ジェネラル・エレクトリックやスタンフォード研究所(現・SRIインターナショナル)と提携し、現代の銀行では主流となっている業務の集中処理化、小切手の自動処理、口座番号、磁気インク文字認識(MICR) などを開発。そして、今日では一般的に信頼が置かれているこれらの技術に基づいて開発されたクレジットカードなども生まれている。これら技術の拡充のおかげで、他の銀行よりも著しく低い管理コストで済み、さらなる経営拡大に成功する。1970年代初期まで世界最大の銀行であった。
1958年には、クレジットカード『バンカメリカード』が発明された。これは後の1976年にVISAカードに変わる。他のカリフォルニアの銀行のコンソーシアム(合併企業)はバンカメリカードと競争するため、Master Charge(現在のMasterCard)を発明した。
1967年の銀行持株会社決議の一件に続いて、バンク・アメリカ・コープは、バンク・オブ・アメリカおよびその子会社を所有する目的で設立される。
バンク・アメリカはシアトルのシーファスト・コープと、その銀行業務の子会社であるシーシアトル・ファースト・ナショナル・バンクを買収し、1983年カリフォルニア以外に経営を広げた。シーファストは石油産業への一連の不良債権によって支払い不能になったため、連邦政府により分割化されるリスクがあった。しかしながら、バンク・アメリカはネーションズ・バンクとの合併まで、この銀行をバンク・オブ・アメリカではなくシー・ファーストとして運営し続けました。
バンク・オブ・アメリカは第三世界(特にラテンアメリカ)の債務が不良債券化し、1986年と1987年に巨大な損失をこうむる。CEOであるサム・アルマコストは前任者であるA・W・トム・クラウセンに問題があったと非難したが、会社は彼を解雇した。この解任は、結果的にバンク・アメリカの株の大きな下落を招く。会社の力を弱めることによって乗っ取りを成功させようとした。ほとんどクライスラーにファイナンス・アメリカの子会社に売ることによって、および証券会社チャールズ・シュワッブをシュワッブへ戻す形で売却することによってバンク・アメリカは拒絶したけれども、ロサンジェルスのファースト・インターステート・バンコープ(BofAがかつて所有した銀行から築かれた一つ)は1986年の秋にそのような企てを実行し始めた。1987年の株式恐慌の日、1992年までの5年間バンク・アメリカは1株当たり8ドルで取り引きしていたけれども、その後の株価はかなり反発し最も大きく得した銀行のうちの1つになる。
バンク・アメリカは、1992年に次の大きな利益を得る。バンク・アメリカはカリフォルニアでライバル社であったセキュリティ・パスィフィック・コープと、カリフォルニアにある子会社のセキュリティ・パスィフィック・ナショナル・バンクを手に入れる。他にも、アリゾナ、アイダホ、オレゴンやワシントンといったセキュリティ・パスィフィックが1980年代後半に手に入れた他の銀行も手に入れる。これは歴史で最も大きな銀行取り引きだった。しかしながら、シー・ファーストとレニエの連合が、バンク・アメリカにその州の市場のあまりにも大規模なシェアを与えるから、連邦取締人によってセキュリティ・パスィフィックのワシントン子会社レイナー・バンクの売却させされる。それ以降、バリー・バンク・オブ・ネヴァダを獲得することで、ネヴァダ州にまで経営を拡大させる。
1994年、バンク・アメリカはシー・ファーストの価値を下げた同じ石油産業敗退の一部として連邦的に所有されるようになったコンチネンタル・イリノイ・ナショナル・バンクとトラスト・Co.オブ・シカゴを獲得した。その時、コンチネンタルを救える資金を持っている銀行はなかったので、連邦政府が10年近く銀行を運営した。イリノイはその時支店銀行制を禁止していた。そういうわけで、バンク・オブ・アメリカ・イリノイは21世紀まで、単一の銀行だった。バンク・オブ・アメリカは経営戦略の展開する店を設立するため、シカゴにその全国的な金融の部署を移動させました。後に起こった合併の後でさえ、中西部は他のバンク・オブ・アメリカの支店がない田舎のままである。
これらの合併は、バンカク・アメリカ株式会社が預金でもう一度最大の米国の銀行持株会社になるための一助となる。しかし、1997年、会社は急成長するナショナル・バンクに抜かれ2位まで後退。1998年にはノース・カロライナズ・ファースト・ユニオン社に抜かれ3位に転落。ファースト・ユニオン・ナショナル・バンク・オブ・ノースカロライナに抜かれ、2位に落ちた1998年まで、カリフォルニア・バンクは最も大きい銀行であった。(これは、ノースカロライナ単独でファースト・ユニオンの市場占有が理由ではなく、BofAが当時取引していた州ごとで個別の銀行を展開する一方、ノースカロライナへその支店をすべて統合してしまった専門的な理由からである。)
[編集] 合併後のバンク・オブ・アメリカ社の歩み
ネーションズ・バンクとバンク・アメリカの合併はその時の歴史上最大の銀行取り引きであった。2つの巨大な会社の規模にも関わらず、連邦取締人はニューメキシコの13支店の剥奪のみ主張しただけである。(合併後の新銀行が、ニューメキシコの唯一の銀行となってしまうため)なぜなら支店の剥奪は、合併後の新銀行のFDIC預金市場占有率が特定の州で25%以上、あるいは連邦全体で10%以上となった場合のみ行われるからである.ネーションズ・バンク、バンク・オブ・アメリカによる648億ドルでのバンク・アメリカの獲得に続く。バンク・オブ・アメリカは5700億ドルの総資産および22の州の4,800店の支店を兼ね備える。
2001年、バンク・オブ・アメリカのCEOであり社長でもあるヒュー・マックコールは辞職し、ケネス・ルイスを彼の後継者として指名する。ルイスの金融訓練および効率性に関するより大きな焦点は、彼の前任者の合併および獲得戦略の発展性とより顕著に対照的である。
2004年、バンク・オブ・アメリカ株式会社は最大のFDICにアメリカの預金市場占有率は5130億ドルと評価されたので、バンク・オブ・アメリカの立場を固めるために、マサチューセッツ州ボストン市を拠点としたフリート・ボストンを470億ドルで買収した。2番目に3530億ドルを保有している最近合併されたJ.P.モーガン・チェイス=バンク・ワン、第3番目の2280億ドルを保有するウェルズ・ファーゴと比べて遥かに抜きん出ている。(2003年6月30日時点)
統合したバンク・オブ・アメリカおよびフリートは、29の州で3500万人の顧客を抱える5,700の支店を持つ。フリート・ボストン・ファイナンシャルとの合併の後、市中銀行や貯蓄やローンの預金の毎10ドルごとのおよそ1の割合でバンク・オブ・アメリカの預金だった。
バンク・オブ・アメリカ株式会社やバンク・オブ・アメリカは預金シェアの点において2番目のライバル会社にかなりの差があるかもしれないが、他の金融サービス会社は財産の基礎、利益、市場投資の点で遥かに上回る。
[編集] 関連文献
[編集] 関連項目
- バンク・オブ・アメリカ・スタジアム…NFLカロライナ・パンサーズの本拠地スタジアム。2004年からバンク・オブ・アメリカが命名権を取得。
[編集] 外部リンク
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