ヒルベルトの23の問題
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ヒルベルトの23の問題(ヒルベルトの23のもんだい、Hilbert('s) problems)はドイツ人の数学者であるダフィット・ヒルベルトが1900年にパリで開催された第2回国際数学者会議(ICM)において、数学における当時未解決であった問題をまとめたもので、ヒルベルト問題とも呼ばれる。ヒルベルトはこの会議で23題の内10題(問題1,2,6,7,8,13,16,19,21,22)を公表し、残りは後に出版された自身の著書により発表されたものである。
彼は元々24題の問題を用意していたが、その内の1題は割愛された。この24番目の問題(簡潔性と総合的な方法の評価基準に関する証明論)は2000年にドイツの歴史学者Rudiger Thieleによって発見されたヒルベルトの手記中に、その存在が初めて確認された。
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[編集] ヒルベルトの問題の性質および影響
ヒルベルトの一覧の後に似たような成功を繰り返すべく試みがなされたが、幅広い問題や推測のセットで、ヒルベルトのものに並ぶような影響を与えたり、ヒルベルトの名声の足元に及ぶものは他になかった。 例えば、アンドレ・ヴェイユの予想は有名であるが、どちらかというと彼の仕事のついでに発表されたものだったし、彼はヒルベルトと競いたがらなかっただろう。 ジョン・フォン・ノイマンも一覧を作ったが、普遍的な称賛を得てはいない。
一見すると、この成功は、その問題の著者が優れていたことによるものと言えそうだ。 ヒルベルトは、当時彼の実力と名声の頂点にあり、その後にはゲッチンゲン大学で類を見ないような学派を率いることになるのだった。 しかし、この問題をつぶさに見ていくならば、それほど単純でない。
当時の数学はまだ散漫なものであり、 言葉を記号に、直感的への訴えかけを公理に置き替える傾向はまだ抑制されていた。これらは次世代の数学者たちによって強く取り入れられることになる。 1900年のヒルベルトは(それぞれの分野に恒久的な変革をもたらす)公理的な集合論、ルベーグ積分、位相空間あるいはチャーチの提唱を利用することはできなかった。 関数解析は、ある意味ヒルベルト空間を見いだしたヒルベルト自身によって基礎づけられたといえるが、そのころはまだ変分法との明確な区別がされていなかった。 変分数学に関連した問題が2つリストに挙げられている一方で、素朴な問いがたてられたであろうスペクトル理論に関する問題は一つもない(問題19は準楕円性に関連しているが)。
その意味では、リストは予言的ではなかった。 ヒルベルトのリストは位相幾何学、群論および測度論が20世紀に急速に発展することを予測できていなかったし、数理論理学が成功していく方法論とは違った考え方にたっていた。 したがって、リストの直接の価値は、部分的で個人的な論説としてのものでしかなく、 いくつかの研究プログラムと未終結の調査を示しただけのものだともいえる。
実は、投げかけられた問の多くは21世紀の(あるいは1950年代の、でも)職業数学者の、よい問に対する解答は数学の学術的専門誌で公表された論文の形をとるだろうという考えを裏切ることになった。 もしそうだったとしたら、リストの解説は問題が解決されていれば論文の掲載誌への参照を示し、さもなければ質問が未解決であるといえるほどに簡単になっただろう。 場合によっては、ヒルベルトが用いた言葉は、何が問題として定式されているのかについて、何かしら解釈の余地があると考えられる。繰り返しになるが、ヒルベルト自身によるユークリッド幾何の定式化に端を発し、プリンキピア・マセマティカをへてブルバキと「知のテロ」に至るまで純粋数学に植え付けられた公理的な基礎付けはまだなかった。 驚くべきだが、第1と第5の問題は記述が十分に明瞭でないために未解決の状態にある。 第12問のような場合では、ヒルベルトが何を目指していたのかがわかりやすいように書かれているとも、単に中途半端な予想を示しただけだともとれる。
ともあれ重要な点は、当時の数学者なコミュニティ(数少ない研究リーダーはだいたい少数のヨーロッパ諸国に集中しており、また個人的な知り合い同士だったので、今と比べたら小さなものだった)によりヒルベルトのリストが速やかに受け入れられたことである。 それら問題は綿密に研究され、1つでも解決できれば名声を得ることができた。
少なくとも、問題内容と同じくらいそのスタイルも影響力をもっていた。 ヒルベルトは明晰さを要求し、アルゴリズム的な質問に対しては、実際のアルゴリズムではなく原理的な解決を、非専門家には分かりづらい直観によって導かれていた分野(シューベルト幾何および数え上げ幾何)についてはしっかりとした基礎付けを求めた。
こうした姿勢は多くの追随者によって引き継がれたが、同時に今なお疑義が呈されてもいる。 30年後になっても、ヒルベルトは彼の立場をさらに先鋭化しただけだった。
[編集] ヒルベルトによる公示としての性格
問題リストおよびその議論の方法が影響力を与えるつもりで作られたのは全く明らかである。 ヒルベルトは帝国建設、計画的な熱意、はっきりとした方向付けと、学派の基礎をはっきりとさせることについてのドイツ学会の期待を感じずにはいられなかった。 今では誰も「ヒルベルト学派」という語をそのような意味で用いることはないし、ヒルベルトの問題もフェリックス・クラインのエルランゲン・プログラムのような受け取られかたをされることはなかった。 クラインはヒルベルトの同僚だったが、ヒルベルトのリストと比べると全く規定的ではなかった。 マイケル・アティヤはエルランゲン・プログラムを時期尚早のものと評した。 対照的に、ヒルベルトの問題は専門家の時宜のはかりかたというものを示している。
現在「ヒルベルト学派」がなにがしかを意味するとすれば、それは恐らく作用素の理論と、数理物理におけるヒルベルト=クーランによる一連の著作を正典とするような流儀のことになるだろう。 上で述べたように、ヒルベルトはリストの中でスペクトル理論についての問題を直接には提起していない。 そうすることはクライン流のやり方になっただろうとも言えるだろう。 さらに、彼自身の代数学への主要な貢献であり、不変式論を研究していた頃からの関心の的であった可換環論(そのころはイデアル理論とよばれていた)にそれほどの重要性を与えなかったし、少なくとも表面上は、レオポルト・クロネッカーに立ち向かっていたゲオルグ・カントールを助けるような教えを広めることもなかった(コンスタンス・リードの伝記に伝えられるように、ヒルベルトはクロネッカーから多くを学んだが、彼の姿勢を嫌悪していた)。 リストの先頭に集合論があげられていることからは多くを読み取ることができただろう。
古典的解析の一分野であり、純粋数学者なら誰でも知っているだろう複素関数論はかなり無視されている。 リーマン予想以外に、ビーベルバッハ予想などのよい問が欠けている。 ヒルベルトの戦略的な目標のうちには可換環論を複素関数論と同じ序列に上げることがあったが、これには50年かかるることになった(そして、いまだに地位が入れ替わるまでには至っていない)。
ヒルベルトには幾人かの相談相手がいた。アドルフ・フルヴィッツとヘルマン・ミンコフスキーはどちらも親しい友達で、彼に匹敵する知性の持ち主だった。 彼は数の幾何学(問題18)と二次形式(問題11)についてのミンコフスキーの研究に賛意を送っている。 フルヴィッツはリーマン面の理論を大きく前進させた。 ヒルベルトは、発展の途上にあった類体論に関する自身の研究において、代数的整数論の幾何学的指針として関数体との類比を援用したが、これは問題9に反映されており、ある程度は問題12、問題21および問題22にもそれがみられる。 1900年におけるほかのライバルといえばアンリ・ポアンカレぐらいだったが、問題16の後半は力学系に関するポアンカレ流の問である。
[編集] 各問題の内容と現状
[編集] 第1問題
ゲオルク・カントールによって提起された連続体仮説
「実数の部分集合には(高々)可付番集合と連続濃度集合の二種類しか存在しない。」
一方では1938年にクルト・ゲーデルによってこの仮説が成り立つような集合論のモデルが構成され、もう一方で1963年にポール・コーエンによりこれが成り立たないようなモデルが構成された。
[編集] 第2問題
算術の公理と無矛盾性
「算術の公理が矛盾を導かないことを証明せよ。」
ヒルベルト自身は、ここでいう「算術の公理」として実数を扱えるようなものを考えていたが、「算術」(arithmetik)という言葉のせいでしばしば自然数を扱える程度の、と受け取られてしまっている。後者については1936年にゲルハルト・ゲンツェンによって有限の立場に少し修正を施した上での無矛盾性の証明が発表された。
[編集] 第3問題
等底・等高な四面体の等積性
「等底・等高の四面体の等積性は、連続変形なしで証明できるか」
底面積が等しく、高さが等しい三角錐(より一般には錐体)は体積が等しい。これは積分計算によって容易に示す事ができるが、積分のような連続的操作によらず、これが証明できるかどうか?と言うのが設問の動機である。即ち、底面積と高さの等しい二つの四面体A、Bがあるとするとき、有限個の四面体の組X1…Xnで、それらをパズルのピースのようにうまく組み合わせるとAにもBにも合同になるような組が常に存在するか?という事である。二次元の場合、つまり三角形の場合はこれが可能である(ボヤイの定理)。
この問題はデーンによって、否定的に解決された。つまり、任意の四面体に対して、同体積でありながら有限個に分割して組みなおすのでは移りあわないような四面体が存在する。
[編集] 第4問題
直線が最短距離を与える幾何学の組織的研究
「公理がユークリッド幾何学に近い幾何学を求めよ。ただし行列の定理は保持し、合同定理は弱まり、平行線定理は省略されるものとする。」
ヒルベルトは問題発表時、自身の研究により既に問題にあるような幾何学を得ており、その上での問題発表となった。 この問題は1901年にハメルによって解かれたが多くの制約を余儀なくされた証明法だったので、1929年にヒルベルトの弟子フンクがこれを改善したものを発表した。また1943年にはビュースマンも改善に成功し、問題を測地線の幾何学に一般化した。 しかしRowe & Grayによると、いくつかの問題は完全に定義されておらず、しかし十分な進歩がそれらの問題を"解決された"として考えられるようにはなっているという。Rowe & Grayはこの第4問題が解決されたかどうかはとても曖昧であると記している。
[編集] 第5問題
位相群がリー群となるための条件
「関数の微分可能性を仮定しないとき、リーによる連続変換群(リー群)の概念は成立するか。」
この問題は1930年にノイマンによって証明されたのを皮切りに、ポントリャーギン、シェヴァレー、マルツェフ等により局所ビコンパクト群の理論が発展されていった。 その後1952年にはグリースン、以降モントゴメリ、ズイッピンらによっても解かれた。最終的には1957年にグラスコフが完全な形での証明を発表した。
[編集] 第6問題
物理学の諸公理の数学的扱い
「物理学は公理化できるか。」
ヒルベルトは「確率と力学」を「物理学者による理論立てを数学者によって検証すること」によって仮説を立証するという一連のシステムの構築を望んでいた。 そのためこの第六問題は(確かに数学の範疇ではあるが)数学的問題を逸脱した部分が多く、数学と言うよりむしろ物理学に重きを置いている。そのため、その証明も力学や熱力学の権威の功績によるものが大きく、しかも「証明」というよりは「発展」に近いものである。
[編集] 第7問題
第二の問題はゲルフォントによって肯定的に解かれた。
[編集] 第8問題
素数分布の問題,特にリーマン予想
[編集] 第9問題
一般相互法則
[編集] 第10問題
ディオファントス方程式の可解性の決定問題
[編集] 第11問題
任意の代数的数を係数とする二次形式
[編集] 第12問題
類体の構成問題
[編集] 第13問題
一般7次方程式を2変数の関数だけで解くことの不可能性
[編集] 第14問題
不変式系の有限性の証明
1958年、永田雅宣が反例を作り、否定的に解決した。
[編集] 第15問題
代数幾何学の基礎づけ
[編集] 第16問題
代数曲線および曲面の位相の研究
[編集] 第17問題
定符号の式を完全平方式を使った分数式で表現すること
[編集] 第18問題
結晶群・敷きつめ・最密充填・接吻数問題
[編集] 第19問題
正則な変分問題の解は常に解析的か
[編集] 第20問題
一般境界値問題
[編集] 第21問題
与えられたモノドロミー群をもつ線型微分方程式の存在証明
[編集] 第22問題
[編集] 第23問題
変分学の方法の研究の展開
[編集] 参考文献
- J・ファング 『ヒルベルトの世界』高木亮一訳、東京図書、1977年。
- Hilbert's problems (18 October 2005 18:26 UTC)In Wikipedia: The Free Encyclopedia. Retrieved from http://en.wikipedia.org/wiki/Hilbert%27s_problems
- Eric W. Weisstein. "Hilbert's Problems." from MathWorld--A Wolfram Web Resource.