ビートルズ論争
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ビートルズ論争( - ろんそう)とは、来日時のビートルズをめぐって、作家小林信彦と音楽評論家松村雄策の間で1991年7月から1992年2月まで行われた論争。「風俗の細部に一つでも間違いがあったら、ドラマは成立しない」(『新潮』1980年5月号発表『パーティー』)と自認する小林信彦の小説『ミート・ザ・ビートルズ』の時代考証はどこまで正確なのか、という問題が争点となった。
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[編集] 発端と経緯
[編集] 発端
松村雄策が1991年6月1日発売の『ロッキング・オン』7月号に「再び天下を取った男 ポール・マッカートニー、余裕のスタジオ・ライヴ『公式海賊版』」と題する評論を発表。この文の中で
- 1.『小説新潮』同年4月号と5月号に掲載の小林信彦の小説『ミート・ザ・ビートルズ』
- 2.『小説新潮』5月号掲載の小林信彦・萩原健太の対談「ビートルズ元年の東京」
の2つに触れて「これは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と『抱きしめたい』というふたつの映画を合わせたようなものである。そうなると1966年の日本のビートルズがどれだけ正確に詳細に書かれているかが気になるところであるが、読んでいておかしなところがずいぶんある。単行本にするのならしっかりと手を加えて貰いたい」という主旨の指摘をした。
すると1991年7月2日に小林信彦からロッキング・オン社社長の渋谷陽一に電話があった。内容は「あの小説については、ビートルズに詳しい連中にチェックさせたので自信を持っている。批判をするなら具体的に書いてもらいたい。単行本にする締切があるので今週中にそれを書いて送ってもらいたい」という主旨だった。
[編集] 松村による指摘
そこで松村雄策は7月5日までに具体的におかしいと思ったことを書き、渋谷陽一経由で小林信彦に送付した。その全文は8月1日発売の『ロッキング・オン』9月号に「小林信彦氏に答える-『ミート・ザ・ビートルズ』の疑問点」として、一連の経緯とともに掲載された。松村雄策の指摘事項は、およそ次の通りだった。
小説『ミート・ザ・ビートルズ』について
- 「ヤング・ミュージック」
- 架空の雑誌名称として使用していると思われるが、当時集英社から出された同名の雑誌が実在する。混同を避けるために別名称にしたほうが良い。
- 「チケット申込が7倍... 」
- チケット購入の申込者数は21万人とも23万人とも言われている。それに対して入場可能だったのは5万人であるから、正しくは4.2倍から4.6倍ということになる。
- 「チケット」
- 当時は「チケット」という言い方はしていない。「入場券」か「切符」。
- 「私が行く初日は、前座がドリフターズなのよね」
- 「昔はドノヴァンて呼ばれていたんだけど、いまや、<ビートル・キャップ>になっちゃった」
- ドノヴァンというのはイギリスのフォークシンガーの名前。そのドノヴァンが被っていたのがドノヴァン・ハット。したがって正しくは「昔はドノヴァン・ハットと呼ばれていたんだけど」となるはず。
- 「加山雄三って、恥ずかしいじゃない」
- あの当時加山雄三を恥ずかしいと思っていた人はほとんどいなかったのではないか。当時の加山雄三は大スターであって恥ずかしい存在になったのはの2~3年後からだったと思う。
対談『ビートルズ元年の東京』について
- 「司会者のエリック・H・エリックが曲の紹介をようとして『次は……』っていうと... 」
- エリックは曲の紹介はしていない。
- 「僕はかなりいい席だったと思うんだけど、ワァーッとなったら、もうあとは何もきこえない」
- 僕(松村)は普通の席だったと思うがちゃんと聴こえた。当時ウェスタン・カーニヴァルなどでは聴こえないことはあったがそれと比べれば観客はおとなしいものだった。
- 「ポールのおじいさんは芸人でしょ」
- そういう事実はない。
以上のような指摘をしてから、松村雄策は次のように締めくくった。
「基本的に、この小説は、「ビートルズ来日事件」の取材はしてあっても「ビートルズ」の取材はしていないと思いました。レコード店やビデオ店に行けばすぐに入手ができる「ビートルズ武道館コンサート」のビデオさえも、チェックがされてはいないことは明白です。まことに遺憾に存じます。」
[編集] 小林の反応
これに対して小林信彦は『ロッキング・オン』側には何の連絡もしなかった。松村雄策が怪訝に思っていたところ、小林信彦は『東京新聞』7月20日夕刊に「<おたく>の病理学」と題するコラムを発表し、この一件に言及した。
「『ミート・ザ・ビートルズ』という小説を書いたために、ボクは一人の<ビートルズおたく>のいやがらせを受けたが、ビートルズについて(年齢的に見ても)無知なのに、自分がすべてを知っていると信じこんでいるのがブキミで、半狂人としか言いようがない。」
[編集] 松村の抗議
これを読んだ松村雄策は、『ロッキング・オン』10月号に「小林信彦の終焉は見たくない」と題する文を発表。その主旨は次の通りだった。
- 本来なら小林信彦の最初の要求は、『ロッキング・オン』誌上でも『小説新潮』誌上でも正式な形で発表すべきであった。こちらとしてはそれから対応してもよかった。
- さらに批判した相手に自分の間違いを教えてくれと頼むとは情けない話であってそれを断ることもできた。
- しかし先輩作家の言うことだからと協力するつもりで忙しい中に期限内に手紙を書いて送り、要求に応えたら礼の一つもなく、それどころか夕刊のコラムで指摘されれば逃げられるような形で人を半狂人呼ばわりした。
- 反論を書くならはっきりと書け。情けないことをするな。
- 松村雄策の経歴を調べたらビートルズについて無知とは書けないはずだ。どうしてしっかり調査して書くということができないのか。
- 発表した作品がちょっとでも批判されればそれを「いやがらせ」としか考えられないような人間は作家を名乗る資格がない。
- こういうものを書いた以上、小林は意地でも指摘どおりに間違いを直さずに間違いだらけの状態で単行本化するだろう。もし指摘どおりに直して発売したら、それは小林信彦という作家の終焉を意味する。
[編集] 小林の反論
この抗議に対して小林信彦は『小説新潮』10月号に「『ミート・ザ・ビートルズ』迷惑日誌」と題する文を発表し、松村を名誉毀損で訴えると言い始めた。松村の指摘には、こう反論した。
- 前座は毎回同じではない。ドリフターズは2日間しか出ていなかった。
- 商売としてやらなくても「あいつは芸人だ」という言い方がある。
- 『ビートルズ武道館コンサート』のビデオは『小説新潮』編集部から受け取っていた。「『ビートルズ武道館コンサート』のビデオさえも、チェックがされていないことは明白です」と一方的に書かれたのは名誉毀損にあたる。
[編集] 松村の再反論
これに対して松村雄策は『ロッキング・オン』12月号に「ネバー・ミート・ザ・ビートルズ」と題する文を発表。それは次のような主旨だった。
- これは1966年にタイム・トリップしたという小説であるが、時代の空気を正確に書かなければこの種の小説は成立しない。
- 「私が行く初日は、前座がドリフターズなのよね」という表現に対する「これでは、前座は毎回違っていたように思われる」との指摘が誤解を招いたのならその非は認める。言いたかったのは「私が行く初日は、前座にドリフターズも出るのよね」とすべきだろうということなのだ。
- 当時ドリフターズが前座に出ようと加山雄三と会おうとおかしいとは思わなかった。その時代の空気の書けてなさを問題にしているのだ。
- 「商売としてやらなくても『あいつは芸人だ』と言う」というのは苦しい言い訳としか言えない。
- あれだけ指摘したのに、反論がドリフターズとポールのおじいさんの件についてだけというのはどういうことか。
- 小林信彦はビートルズに興味がないと思われる。興味がないものを題材にするのならその分なおさら正確にしなければならないのは言うまでもない。興味もなければ正確でもないというのでは小説は成立しない。
- 武道館コンサートのビデオを見たことがある人なら司会者が最初と最後にしか出てこないのは誰でも知っている。「司会者のエリック・H・エリックが曲の紹介をしようとして、『次は……』っていうと」などという発言をしているようではビデオを見ていないと思われてもしょうがない。
[編集] 事態の波及
ここまできた段階で、他誌もこの論争に注目するようになった。『週刊SPA!』11月16日号で揶揄的に取り上げられたこともある。しかし同誌の記事は取材不足が明白で、事実を伝える機能すら果たさなかった。このため、同誌12月11日号には編集部からの謝罪記事が掲載される騒ぎになってもいる。
[編集] 小林の再抗議
一方、小林信彦は『本の雑誌』12月号に「事実と小説のあいだ」と題する文を発表。その内容は次のようなものだった。
- 「ヤング・ミュージック」という誌名は時代色がよく出ていてこのままでかまわない。
- チケット申込の倍率は関係筋に消えたのを考慮すると12倍以上になる。登場人物は業界の裏にも通じているので7倍あたりが妥当。
- ぼくが仕事をしていたのは当時もっともおしゃれだった日本テレビ。「チケット」「入場券」いずれもありだった。
- ドノヴァン・ハットを説明すべく小説の登場人物が説明的会話をするのはぼくの小説作法に反する。
- 東宝はあの手この手で加山雄三をスターにしようとして失敗し、若大将シリーズの『エレキの若大将』(1965年)の挿入歌『君といつまでも』のヒットでようやく実質的なスターになれた。
[編集] 松村の再々反論
これに対して松村雄策は『ロッキング・オン』1992年2月号に「消えろ、『ミート・ザ・ビートルズ』」と題する文を発表。次のような内容だった。
- 時代色がよく出ているもなにもない。1967年1月に実際に集英社から出ている音楽雑誌名なのだ。その事実を知っている人がこの小説を読めば奇異に感じる。なぜ1966年6月に創刊前の雑誌が存在するのか考え込んでしまうかもしれない。つまり小説としておかしい。
- 7倍の根拠がよくわからない。21万人を3日間で割ってしまったと白状しろ。この発言をしている登場人物は音楽雑誌の一記者であるが、そういう人間が後日ならともかくコンサート前に、関係筋にどれだけ消えて実質倍率がどうかなんてことがわかる訳がない。5万人が入場可能なコンサートに50万人の申込があれば、人はそれを10倍と言うのだ。苦し紛れの言い訳をするな。
- 主人公のチケットを破いてしまう柄の悪いプロレスラーのような男達も「チケット」と言っている。どうも見てもこの男達はチンピラやくざだ。1966年のチンピラやくざは当時もっともおしゃれな日本テレビで先を行っていたひとと同じということになる。無理な言い訳である。
- 繰り返すがドノヴァンは人名である。それを知らずに書いただけだろう。説明的会話も小説の作法も無関係である。言い訳にすらなっていない。
- これは60年代業界裏話ではない。タイムトリップ小説であり加山雄三はスターだったと小林自身も書いているのだから「加山雄三は恥ずかしい」というのは66年の空気を正しく伝えることにならない。
- 「E・H・エリックが曲紹介した」というのはどうなったのか。訴訟に絡む重要なことである。
そして松村雄策はこの原稿を次のように締めくくった。
「こういうタイム・トリップ小説というのは、基本的にありえないことである。ありえないけれど、夢中になってその世界に引き込まれてしまうというものである。しかし、こんなに間違いだらけでは、夢中になることは出来ない。なんだかおかしいじゃないかということで、ありえないじゃないかというところに戻ってしまうのだ。完全な失敗作である。」
「これは二本の映画のおいしい部分をいただいて、そこにビートルズをくっつけたという、作者の卑しさが明確にあらわれたものである。ビートルズやビートルズ・ファンや読者を侮辱しているのである。消えろ!」
この一文をもって、一応この論争は終息を迎えた。
[編集] 事態の収拾
事態の収拾については松村雄策の友人でもある渋谷陽一が出版関係各方面に奔走したと言われている。
なお、この論争時の文章は、小林・松村ともに単行本には収録していない。
小林は後年(1999年12月13日)、「いじめやいやがらせ、はどんな世界にもある。出版の世界にだって、いくらでもある。ぼく自身、いわれのない言いがかりをつけられたことがあるが、とりあえず忍耐するしかなかった。かりに殺したい気持があったとしても」(『最良の日、最悪の日』)とも述べた。