フレグ
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フレグ(Hülegü, Hülägü、旭烈兀、1218年-1265年)とは、イルハン朝(フレグ・ウルス)の創始者である(在位1260年-1265年)。ペルシア語では هولاكو خانHūlākū khān と表記される。アバカの父。
チンギス・ハーンの子のトルイと、ケレイト族出身の正室ソルカクタニ・ベキの間の三男として生まれた。モンケ、クビライ、アリクブケは同母兄弟であり、チンギス・ハーンの孫にあたる。イル・ハン ايلخان Īl-khān の尊称で呼ばれた。
幼少時代については不詳であるが、1219年に早くも河南地方の彰徳路に所領を有していたようで、『元史』によれば祖父チンギスより「打捕鷹房民戸七千余戸」を分与されていたと記録されている。
1253年、兄モンケ・カアンの勅命により西征軍総司令に任命され、イラン方面総督であったアルグン・アカ以下アムダリヤ川以西の帰順諸政権を掌握し、ニザール派、アッバース朝、シリア、アナトリア、エジプト諸国を征服すべく出征した。1256年にはニザール派教主ルクヌッディーン・フルシャーが投降、本拠地アラムート城塞が陥落。1258年にはバグダードを征服しアッバース朝カリフ・ムスタアスィムを捕縛・殺害して同王朝を滅亡させた。1260年2月にはアレッポを攻略し、同年4月にはダマスクスを陥落さるなど、快進撃を続け次々と領土を広げる。
1259年に長兄モンケが没する。フレグの次兄・クビライと弟アリクブケが長兄モンケの後継をめぐって争いを始めた為、フレグはモンゴル帝国には帰還せずに中東地域(現在のイラン付近)に留まり、1260年秋にイルハン朝を建国した。
この頃ジョチ・ウルスから派遣され西征軍に従軍していた諸将・王侯があいついで謀叛・急死したため、バトゥの跡を継いだジョチ家の当主ベルケはこれを不審視し、フレグとの間に深刻な対立を生じてしまった。
1264年に後継者争いに勝ったクビライが跡を継ぐと、フレグはクビライの大ハーン位を支持した。
フレグは当時アーザルバーイジャーン地方の州都であったタブリーズを首都と定め、アルメニアのヴァン湖近辺のアラタグ、コルデスターン州のシヤーフクーフを夏営地に、現在のアゼルバイジャン共和国のクラ川低地地域であるアッラーン地方、バグダードなどを冬営地に選定している。
また、アーザルバーイジャーン地方の古都であるマラーゲに大規模な天文台と複合施設を建造し、当時の大学者であったナースィルッディーン・トゥースィーに『イルハン天文表』を作成させている。
1265年2月8日にマラーゲ周辺のチャガトゥーの地で没し、ウルーミーエ湖湖畔のシャーフー山に設けられた大禁地に埋葬された。同年4月にアバカが後継者として即位する。
[編集] 外部リンク
- 『集史』フレグ・ハン紀 日本語訳 矢島洋一ほか7名による日本語訳
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