エジプト
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- エジプト・アラブ共和国
- جمهوريّة مصر العربيّة
Jumhuriya Misγr al-‘Arabiya -
(国旗) (国章) - 国の標語 : なし
- 国歌 : 我が祖国
-
公用語 アラビア語 首都 カイロ 最大の都市 カイロ 大統領 ホスニー・ムバーラク 首相 アフマド・ナズィーフ 面積
- 総計
- 水面積率世界第29位
1,001,450km²
0.6%人口
- 総計(2004年)
- 人口密度世界第15位
76,117,421人
76人/km²GDP(自国通貨表示)
- 合計(2005年)
5,501億エジプト・ポンド (£)GDP(MER)
- 合計(2005年)世界第49位
916億ドルGDP(PPP)
- 合計(2003年)
- 1人当り世界第28位
2,943億ドル
3,900ドル独立
- 日付イギリスより
1922年2月28日通貨 エジプト・ポンド (£)(EGP) 時間帯 UTC (+2)(DST: (+3)) ccTLD EG 国際電話番号 20
エジプト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく)、通称エジプトは、中東・アフリカの国。首都はカイロ。
西にリビア、南にスーダン、北東にイスラエルがあり、北に地中海、東は紅海に面している。南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯のほかは大部分が砂漠である。ナイル河口の東に紅海と地中海を結ぶスエズ運河がある。
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[編集] 国名
正式名称は、アラビア語で【جمهوريّة مصر العربيّة】。ラテン文字転写(一例)は、【Jumhūrīya Misr al-‘Arabīya】。読みは、ジュムフーリーヤ・ミスル・アル=アラビーヤ(צצנמנממבמהחמ共通アラビア語)あるいはゴモホーレイヤ・マスリ=ル=アラビーヤ(現代エジプト方言)。通称は、مصر(Misr、ミスルあるいはマスル)。
アラビア語名のミスルは、本来はアラブの大征服の時代にイスラム帝国の各地に建設された軍営都市のことである。アラブ時代以降、エジプトに建設された軍営都市から発展してエジプトの首府となったフスタートおよびその後身であるカイロが長らくミスルと通称されたため、ミスルを首府とする国という意味で広くエジプト地域を指す地域名・国名として定着した。[要出典]
公式の英語表記は、Arab Republic of Egypt(アラブ・リパブリック・オブ・イージプト)。通称、Egypt。
日本語の表記は、エジプト・アラブ共和国。通称、エジプト。英語を通じて日本語に入った「エジプト」の名は古代ギリシア語で「暗い」を意味するアイギュプトス (Αιγυπτος Aigyptos) に由来している[要出典]。古代エジプト語ではケムト(黒い土地)と言った。漢字では、埃及と表記し、埃と略す。この漢字表記は、中国語がそのまま日本に輸入されたものである。
- 1882年 - 1922年 (イギリス領)
- 1922年 - 1953年 エジプト王国
- 1953年 - 1958年 エジプト共和国
- 1958年 - 1971年 アラブ連合共和国
- 1971年 - エジプト・アラブ共和国
[編集] 歴史
「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川のデルタに支えられて古代エジプト文明を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し、ピラミッドや王家の谷、ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、紀元前525年にペルシアに支配され、ペルシア帝国、紀元前332年にはアレクサンドロス大王に征服された。その後ギリシア系のプトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化の中心のひとつとして栄えた。
プトレマイオス朝は紀元前30年に滅ぼされ、エジプトはローマ帝国の属州となりアイギュプトスと呼ばれた。ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まり、コプト教会が生まれた。ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属し、豊かな穀物生産でその繁栄を支えたが、639年にイスラム軍の将軍アムル・イブン=アースによって征服され、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。
アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝・イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。これ以来、アイユーブ朝、マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上に渡って続く。とくに250年間続いたマムルーク朝のもとで中央アジアやカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立し、1516年にマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたオスマン帝国のもとでもマムルーク支配は温存された。
1798年、フランスのナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征をきっかけにエジプトは近代国家形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人、ムハンマド・アリーであった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、経済・軍事の近代化を進めて、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功し、アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立ててた(ムハンマド・アリー朝)。
しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、またムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。1869年にエジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させるが、その財政負担はエジプトの経済的自立に決定的な打撃を与え、イギリスの進出を招いた。1882年にアフマド・アラービーが中心となって起きた反英運動もイギリスによって鎮圧され、エジプトはイギリスの保護国となる。
1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。その結果、大戦後の1922年2月28日にエジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。
エジプト王国は立憲君主制をひいて議会を設置し、緩やかな近代化を目指すが、第二次世界大戦前後からパレスチナ問題の深刻化や、1948年から1949年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)でイスラエルに敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。この状況を受けて1952年、自由将校団がクーデターを起こしてムハンマド・アリー朝を打倒(エジプト革命)、1953年に共和制へと移行し、エジプト共和国が成立した。
1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥン=ナーセル(ナセル)のもとでエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界・アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはにスエズ運河国有化を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させ、国名をエジプト・アラブ共和国に改称している(1961年に解消)。しかし、1967年の第三次中東戦争(6日戦争)は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。
1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダート(サダト)は、社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル体制の切り替えを進めた。しかし政治的自由化によってイスラム主義がかえって勢力を伸張させて体制に対する抵抗が激化し、サーダート自身も1981年にイスラム過激派のジハード団によって暗殺された。かわって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、イスラム主義運動を厳しく弾圧して国内外の安定化をはかるなど、開発独裁的な政権を20年以上にわたって維持している。
[編集] 政治
国家元首の大統領は、立法・行政・司法の三権において大きな権限を有する。また国軍の最高司令官でもある。大統領の選出は、議会が候補者を指名し、国民が信任投票を行う。任期は6年で、再選も可であるが、第2代ナーセル大統領以来、事実上の終身制が慣例となっている。
議会は、一院制の人民議会(マジリス)。全454議席で、444議席は民選、10議席は大統領指名枠。任期5年。これとは別に、諮問機関としての会議体がある。全264議席で、176議席が民選、88議席が大統領指名枠。
政党については、エジプトの政党を参照。エジプトでは宗教政党が禁止されているためムスリム同胞団などは非合法化されている。
[編集] 州
詳細はエジプトの州を参照
エジプトの最上級の地方行政単位は、26ある州 (muhāfaza) である。県と訳されることもある。知事は、中央政府から派遣される官選知事で、内務省の管轄下において、中央集権体制をとる。極端な行政区分でナイル川流域やナイル下流は非常に細分化されているにもかかわらず、南部は非常に大まかに分けられている。
[編集] 主要都市
- アシュート
- アスワン
- マラウィー
- アレクサンドリア
- イスマイリア
- インババ
- エスナ
- エドフ
- カイロ
- キーナ
- ギーザ
- コム・オンボ
- サガジーク
- スエズ
- スブラエルケーマ
- ソハーゲ
- ダマンフール
- タンタ
- ファイユーム
- ベニスエフ
- ポートサイド
- マハラクブラ
- マンスーラ
- ミニヤー
- ルクソール
- シャルム・エル・シェイク
[編集] 地理
[編集] 経済
スエズ運河収入と観光収入に依存するところが大きく、政情に左右されやすい。また近年代表的な農業製品である綿製品は価格競争において後塵を拝している。 1970年代農業の機械化及び各種生産業における機械への転換により、労働力の過剰供給が見受けられるようになり、都市部に流出し、治安・衛生の悪化及び社会政策費の増大を招くも、80年代には、石油産業従事者の増大に伴い、農業において労働力不足が顕著となる。この為綿花及び綿製品の価格上昇を招き、国際競争力を失った。 90年代から、IMFの支援を受け経済成長率5%を達成するがまた、社会福祉政策の低所得者向け補助の増大及び失業率10%前後と支出の増大に加え、資源に乏しく食料も輸入に頼るため、2004年には物価上昇率10%に達するなどの構造的問題を抱えている。現状、中小企業育成による国際競争力の強化、雇用創生に取り組んでいるも結果が出ていない。2004年のナズィーフ内閣が成立後は、国営企業の民営化及び税制改革に取り組んでいる。
[編集] 国民
住民はイスラム教徒とキリスト教徒(コプト教会、東方正教会など)からなるアラブ系のエジプト人が主であり、その他にベドウィン(アラブ遊牧民)やベルベル人、ヌビア人、アルメニア人、ローマ人、トルコ人、アラブ人、ギリシア人などがいる。
宗教はイスラム教が94%(ほとんどがスンナ派)であり、憲法では国教に指定されている(が、既述の通り、現在では宗教政党の活動ならびにイスラム主義活動は禁止されている)。その他の宗派では、エジプト土着のキリスト教会であるコプト教会の信徒が多い。
言語はアラビア語が公用語である。ヌビア語、教育・ビジネスに英語、文化的にフランス語も使われている。コプト教会の儀式に古代エジプト語の流れを汲むコプト語が使われることもあるが、口語としてはほぼ死滅状態となっている。
尚、エジプト人に対して、「あなたはエジプト人ですか?」と質問するのは避けたほうが良いとされている。逆に否定されることが多いからである。コプト教会の信徒の場合は「コプト人です」と答え、そして、スンナ派に属するムスリムの場合は「アラブ人である」と答えることが多い。このようにエジプト国内では、“エジプト人”という呼称は21世紀に於いても不適切な表現とされている。
[編集] 文化
- 古代エジプトの建物で有名。
- 国立図書館:新アレクサンドリア図書館
- カードゲームの発祥の地としても知られている。
[編集] 世界遺産
エジプト国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件登録されている。
- メンフィスとその墓地遺跡-ギーザからダハシュールまでのピラミッド地帯 - (1979年、文化遺産)
- 古代都市テーベとその墓地遺跡
- アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群
- イスラーム都市カイロ
- アブ・メナ
- 聖カトリ-ナ修道院地域
- ワディ・アル・ヒタン
[編集] 祝祭日
8月8日は、母の日。これは日本と同じである。
[編集] 外部リンク
[編集] 公式
(嘘)
[編集] その他
- 世界の国々 > アフリカ
-
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