フレデリック・ヘンドリック (オランダ総督)
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オラニエ公フレデリック・ヘンドリック(Frederik Hendrik van Oranje,1584年1月29日 - 1647年3月14日)はオランダ総督。オラニエ公ウィレム1世の末子、マウリッツの弟。母はウィレム1世の4番目の妻でガスパール・ド・コリニーの娘ルイーズ・ド・コリニー。父の政治能力と兄の軍事能力をバランス良くあわせ持っていたと言われ、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の内政・対外政策ともに中庸策をとって、国内の平穏と八十年戦争(オランダ独立戦争)の終結に貢献した。
1625年に死去した兄マウリッツからオラニエ=ナッサウ家の家督と総督職を継承した。スペインとの戦争では、南部国境の諸都市を奪い、ほぼ現在のベルギーとの国境までオランダの領土を拡大し、またフランスと同盟を結んで勝利を収めた。ヴェストファーレン条約の成立にも尽力したが、締結の前年に死去した。しかし、この条約によってオランダ国は国際的に独立が承認され、スペインとも和平が成立して八十年戦争(オランダ独立戦争)は終結した。
フレデリック・ヘンドリックの正嫡の息子はウィレム2世のみであり、このウィレム2世がオラニエ公と総督職を継承した。イングランド王ウィリアム3世となったオラニエ公ウィレム3世はその息子である。一方、娘はブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)やナッサウ家傍系ナッサウ=ディーツ家などの諸侯に嫁がせたが、後者の血筋が現在のオランダ王家につながっている。
フレデリック・ヘンドリックはオランダ軍の総司令官として戦果を上げる一方、フランス風の宮殿を造営して華やかな宮廷生活を行い、またドイツの有力諸侯やイギリスのステュアート王家と姻戚関係を結んだ。これによりオラニエ=ナッサウ家のステータスは高まったが、同時に諸外国とオランダとの関係を複雑なものにした。
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