ブルシーロフ攻勢
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ブルシーロフ攻勢(ブルシーロフこうせい;ロシア語:Брусиловский прорыв;ドイツ語:Brussilow-Offensive;ウクライナ語:Брусилівський прорив)は、第一次世界大戦におけるロシア帝国の最大の戦果であり、史上最も戦死者数の多かった戦闘の一つである。1916年6月4日に東部戦線の中央同盟諸国軍に対して開始され、同年8月前半まで続いた。会戦の場所は現在のウクライナ西部のハルィチナー(ガリツィヤ)・ブコヴィナであり、リヴィウ(リヴォフ、レンベルク)、コーヴェリ、ルーツィク(ルーツク)付近で展開された。会戦の名前は本作戦の発案者でもあるロシアの南西正面軍司令官のアレクセイ・ブルシーロフ将軍の名をとってつけられた。
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[編集] 背景
1916年前半、フランスはロシアに対して東部戦線で攻勢に出て、ドイツ軍の増援部隊を引き寄せることによってヴェルダンへの圧力を軽減できるよう助けを求めた。ロシア軍はそれに応えてヴィリニュス近郊のナーロチ湖で攻勢に出たが、ドイツ軍の約5倍の損失を出して敗退した。1916年の夏イギリス軍のソンム攻勢が同様の目的で開始されたが、すぐに泥沼に陥り、西方連合国は再びロシアに助けを求めた。これに応えてブルシーロフ将軍はスタフカ(ロシア参謀本部)に彼の南西正面軍によって行うガリツィヤのオーストリア軍に対しての攻勢計画を提案した。ブルシーロフの作戦の主目的はフランスの英仏軍とイソンゾ戦線のイタリア軍に対する圧力を軽減し、更にあわよくばオーストリア・ハンガリーに大打撃を与えて戦争から脱落させることであった。
[編集] ロシアの計画
ロシアの西方軍集団の司令官アレクセイ・エーヴェルト将軍は守勢に傾いてブルシーロフの攻勢計画に反対した。ニコライ2世は1915年に自ら陸軍総司令官に就任していた。エーヴェルトはツァーリとロマノフ家の熱烈な支持者であったが、ニコライ2世はブルシーロフの計画を承認した。作戦の目的は前年に失ったコーヴェリとリヴォフの奪回であった。スタフカはブルシーロフの計画は認めたが、ブルシーロフの求めた両隣の各正面軍による補助的攻勢は拒絶した。
[編集] 準備
西側諸国からの強い圧力でロシアは攻勢の準備を急いだ。ブルシーロフは歩兵40個師団と騎兵15個師団からなる4個軍を集結させた。彼に対するのはオーストリア軍の歩兵39個師団と騎兵10個師団で、三重に防衛線を構築していた。もっともあとでドイツ軍の増援が加わることになる。ロシア軍はオーストリア軍の防衛線に忍び寄って100ヤードないし75ヤード程度の距離まで近づいた。ブルシーロフは300マイル幅の正面にわたって奇襲攻撃を準備した。スタフカは攻勢正面の幅を狭めて兵力を集中させることをうながしたが、ブルシーロフは彼の計画にこだわり、スタフカも折れた。
[編集] 突破
6月4日、ロシア軍は大規模かつ正確だが比較的短時間の砲撃をオーストリア軍防衛線に対して行い、攻勢を開始した。この攻勢の鍵は短時間だが正確な砲撃を行うことであり、これまでの終日にわたる集中砲撃が防衛側に予備軍を呼び寄せ、前線の塹壕を放棄する余裕を与えていたのと対照的であった。最初の攻撃は成功した。オーストリア軍の前線は崩壊し、ブルシーロフの4個軍の内3個軍は幅広い戦線で前進した。この突破の成功はオーストリア軍戦線の弱点をついて突破口を開き、主力の前進を可能にするためにブルシーロフが考案した「衝撃部隊」("ударная группировка")によるところが大きかった。ブルシーロフの革新的戦術は西部戦線で用いられることになるドイツ軍の浸透戦術(別名フーチェル戦術)の先駆けであった。
[編集] 戦闘
6月8日、南西正面軍はルックを占領した。オーストリアのヨーゼフ・フェルディナント大公はからくもロシア軍が入ってくる前に市を脱出できたが、このことからもロシア軍の前進の速さがわかる。オーストリア軍は全面的に敗走を始め、ロシア軍は20万人以上の捕虜を得た。しかしブルシーロフの部隊も過剰に展開し過ぎたため、彼は以降の作戦の成否はエーヴェルトの部隊による攻勢次第であると通告した。にもかかわらずエーヴェルトは攻勢を延期し続け、ドイツ軍最高司令部に東部戦線に援軍を送る時間を与えてしまった。
ルーツク陥落の日に行われた会議で、ドイツ参謀総長のエーリヒ・フォン・ファルケンハインはオーストリアのコンラート・フォン・ヘッツェンドルフ元帥にイタリア戦線から兵力を抽出してガリツィヤのロシア軍に対して送るよう説得した。パウル・フォン・ヒンデンブルク将軍はドイツの良好な鉄道網を利用して再び東部戦線への素早い増援に成功した。
ようやく6月18日に弱体な兵力による準備不足の攻勢がエーヴェルト指揮のもと開始された。6月24日に、アレクサンダー・フォン・リンシンゲン将軍はコーヴェリの南のロシア軍を攻撃し、ロシア軍の攻勢を一時的に食い止めた。6月28日にブルシーロフは自部隊の攻勢を再開して、補給不足にもかかわらず9月20日にはカルパチア山脈に到達した。ロシア軍最高司令部はエーヴェルトの戦線から兵を引き抜いてブルシーロフのもとに増援を送ったが、ブルシーロフは兵を増やしても自部隊の戦線が混乱するだけであるとそのような増援には強く反対していた。やがて敵味方共に疲弊し、ドイツ・オーストリア軍に蹂躙されたルーマニア支援のためロシア軍は部隊を送る必要が生じたため、9月末にようやく攻勢は終了した。
[編集] 結果
作戦の第一目的はドイツ軍がヴェルダン攻勢を中止して東部戦線に大きな増援部隊を送らざるを得なかったことにより達成された。オーストリア・ハンガリー軍は150万人の損失(捕虜40万人)を出し、これ以降二度と攻勢作戦に成功することができず、軍事的勝利はドイツ軍に全面的に依存することとなった。また攻勢初期の成功をみてルーマニアが連合国側に立って参戦することとなったが、ルーマニアはその後壊滅的な打撃を受けることとなる。
ロシアも約50万人の大きな損失を出したが、ロシア軍兵力の膨大さを考えると、この損失は軍事的には許容できるものであった。ブルシーロフ攻勢は第一次世界大戦におけるロシアの軍事的努力の頂点をなし、その絶妙な計画と指揮は帝政ロシア陸軍においてまれなものであった。これ以降陸軍が払った多大な犠牲にもかかわらず国内での政治・経済面での状況は悪化し、ロシア軍の戦力は下降線をたどることになる。
攻勢はロシアの戦術の質的な目覚しい進歩を示すものであった。ブルシーロフは比較的少数の特別に訓練された部隊を用いてオーストリア軍の塹壕線の弱点を襲い、ロシア軍主力の前進に必要な突破口を開けた。この衝撃戦術はこれまでこの戦線に特徴的だった人海戦術からの注目すべき変化であった。皮肉にもロシアはブルシーロフの戦術の真価を理解せず、これを1918年に西部戦線において「襲撃部隊」("Sturmabteilung")という形で用いて大きな戦果を上げたのはドイツ軍であり、西側連合軍もあわててこれを模倣して更に大きな戦果を上げた。衝撃戦術は第二次世界大戦でのドイツ軍の電撃戦や、ドイツに対する西側連合軍の攻勢で大きな役割を演じ、その後も朝鮮戦争、第一次インドシナ戦争などでも続けられ、大規模な塹壕戦の時代はアフリカなどを除いて終わりを告げた。