ヘンリー・ダイアー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヘンリー・ダイアー(Henry Dyer、1848年8月16日 - 1918年9月25日)は、日本における西洋式技術教育の確立と、日英関係に貢献したイギリスの教育者である。
目次 |
[編集] 生涯
1873年から1882年まで工部省工学寮(1877年、工部大学校に改称、東京大学工学部の前身)の初代都検(教頭。実質的な校長)を務めた。電話機やフットボールをはじめて日本に持ち込んだ人物としても知られる。帰国後も、日本を「東洋の英国」と位置づけるなど、近代期の日英関係に貢献した。
当時、ヨーロッパにおけるエンジニアリングの地位は、サイエンスに対して低く見られていた。ダイアーは、日本における工学教育の確立にあたり、「工学は『もの』を対象にして、それを扱う学問である。」とし、エンジニアリングを学問として確立することを目指した。また、理論より実践を重視した教育を目指し、学生に工場や土木現場で働くことを課した。また、全人的な教育を目指し、知識だけでなく、身体、精神の鍛錬を重んじた。当時、工部大学校には士族が多く学んだが、この教育により「サムライ」としての立場にとらわれず、「エンジニア」としての精神を身につけていったとされる。このことは、近代日本における工学の地位を高めるとともに、独立国家として発展する原動力となった。
ダイアーの教育思想を育んだ背景は、大英帝国の発展を支えた「機械の都」スコットランド・グラスゴーに根づく「エンジニアの思想」であったと考えられる。「エンジニアの思想」とは、ヴィクトリア期スコットランド人技師によって生み出されたもので、「エンジニアとは、社会進化の旗手であり、生涯、研究・創作していく専門職である」という考え方である。
ダイアーが初代都検として来日する機縁のひとつには、アンダーソン大学において山尾庸三とともに学んだことが挙げられる。山尾庸三は、伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助らとともに幕末期に英国に密航した「長州五人組」のひとりであり、工部省の工部大輔、工部卿を歴任している。また、ダイアーは、このアンダーソン大学の後身であるストラスクライド大学の設立にも尽力した。
[編集] 経歴
- 1848年 ノース・ランアークシャーのボスウェル区マーマキン村(現在はベルシル町に統合)に生まれる。
- 1865年 一家、グラスゴー転居。工場に勤務しつつ、アンダーソン大学(後のストラスクライド大学)で学ぶ。
- 1868年 スコットランド人として初めてウィトワース奨学金を受け、グラスゴー大学で学ぶ。
- 1873年 近代エンジニアリングの先駆者であるウィリアム・ランキン教授などに学び、グラスゴー大学を卒業。
- 明治政府により、工部省工学寮の校長に任命され来日。25歳。近代日本の技術教育の確立に尽力。
- 1882年 職を辞し、帰国。明治政府より、勲三等。
- 1886年 グラスゴー西部スコットランド工科大学およびグラスゴー西部スコットランド農業大学の終生役員となる。
- 1891年 グラスゴー教育委員会のメンバーとなる。
- 1914年 グラスゴー教育委員会の教育長に就任。
- 1918年 70歳で死去。
[編集] 著作
- The Evolution of Industry(1895)
- Dai Nippon: The Britain of the East(1904)
- Japan in World Politics(1909)
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- Henry Dyer著、平野 勇夫訳『大日本-技術立国日本の恩人が描いた明治日本の実像』実業之日本社、1999年。ISBN 9784408103570
- 三好信浩著『ダイアーの日本』福村出版、1989年。ISBN 9784571105333
カテゴリ: スコットランドの人物 | お雇い外国人 | 1848年生 | 1918年没