ペトラ
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ペトラ (ヨルダン) |
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エル・カズネ(宝物殿) | |
(英名) | Petra |
(仏名) | Petra |
登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | 文化遺産(i) (iii) (iv) |
登録年 | 1985年 |
拡張年 | |
備考 | |
公式サイト | ユネスコ本部(英語) |
地図 | |
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ペトラは、ヨルダンにある遺跡。死海とアカバ湾の間にある渓谷にある。死海から約80km南に位置する。またぺトラとは、ギリシャ語で岩を意味する。1985年12月6日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録。
目次 |
[編集] 概要
ペトラのある地は、自然の要害であった。また西にガザ、北にダマスカス、紅海にも近く、中東での人や物の行き交う要衝の地でもあった。ナバテア人(Nabataeans)の首都、砂漠を移動していたキャラバン隊の中継基地であったと伝えられてきた。
立地条件の良さのため、紀元前1世紀ごろから、古代ナバテア人の有力都市として栄えた。ぺトラの特徴として、スパイス交易の拠点機能と治水システムがあげられる。
完全な岩礁地帯であるので、農業には不向きであった。また雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内を通過していった。ナバテア人は、ダムを作って鉄砲水を防ぎ、さらに水道管を通して給水システムを作り上げたことが分かっている。
[編集] 歴史
紀元前1200年頃から、エドム人たちがぺトラ付近に居住していたと考えられている。エドム人たちの詳細は不明である。
立地条件の良さのため、紀元前1世紀ごろから、エドム人達を南へ追いやったナバテア人達が居住しはじめる。ナバテア人はアラビア付近の貿易を独占。それにともないぺトラも古代ナバテア人の有力都市として栄えた。
紀元前64年から紀元前63年ごろ、ナバテア人はローマの将軍、ポンペイウスにより、その支配下におかれる。ローマは、ナバテアの自治は認めたものの、税を課した。また砂漠から進入してくる異民族の緩衝地帯とした。また、ローマ風の建築物の造営がこのころ始まった。
106年には、ローマ皇帝トラヤヌスによりペトラとナバテア人はローマのアラビア属州として完全に組込まれる。
1812年、スイス人の探検家、ルートヴィヒ・ブルクハルトが、十字軍以降、最初にヨーロッパへ紹介した。
[編集] 発掘調査
ルートヴィヒ・ブルクハルトによる紹介以降、20世紀の頭から発掘調査が行われ始めた。2004年現在でも続いている。2000年の調査段階でも、未だ遺跡の1%程度しか完了していないと推定されている。
[編集] 主な史跡
- エル・カズネ(宝物殿)
[編集] 登録基準
この世界遺産は、世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
- (i) 人類の創造的天才の傑作を表現するもの。
- (iii) 現存する、または、消滅した文化的伝統、または、文明の、唯一の、または少なくとも稀な証拠となるもの。
- (iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例。
[編集] その他
エル・カズネ(宝物殿)は、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』でのロケ地として使われた。
[編集] 関連項目
ヨルダンの世界遺産 World Heritage Sites in Jordan |
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文化遺産 | |
ペトラ | アムラ城 | ウム・アル=ラサス | |
文化遺産(※エルサレム) | |
エルサレムの旧市街とその城壁群 | |
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