マックス・シュティルナー
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
マックス・シュティルナー(Max Stirner, 1806年10月25日 - 1856年6月26日)は、ドイツの哲学者。青年ヘーゲル派の一人。マックス・シュティルナーという名前は、ペンネームであり、本名はヨハン・カスパー・シュミット(Johann Kaspar Schmidt)である。シュティルナーの名は、彼の身体的特徴である突起している「おでこ」(Stirne)を基に高校時代につけられたニックネームに由来する。フィヒテとフォイエルバッハの哲学に影響され、極端な個人主義を軸とする哲学を展開。交換不可能な自我以外の一切のものを空虚な概念として退け、自我に価値のあるもののみにその存在を認める徹底した個人主義の思想は、青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)のメンバーに影響を与えた。マルクスやエンゲルスはシュティルナーの個人主義を執拗に批判したが、今日の研究では、彼らの批判はシュティルナーという的を射抜いていないことが指摘されている。また、シュティルナーは前記の個人主義の立場から、個人の価値を阻害する権力体としての国家や圧力体系としての社会の存在を否定するアナキズム的な立場を主張。これらシュティルナーの思想はアナキズムの個人主義的傾向に深い影響を与えたが、またエドゥアルト・フォン・ハルトマンの無意識者の思想はもちろんのこと、完全に自由な自我を求めていったということで、ニーチェの超人思想にも影響を与えたといえる。
[編集] 生涯
シュティルナーは、バイロイトで楽器職人の子として生まれた。小さい頃から、ラテン語やフランス語などに親しみ、優秀であった。彼の通っていた高校が後にヘーゲル右派を代表する学者・ガプラーが校長を務めていた学校である、イムホーフ高校であるのも受けて、当時ヘーゲル哲学の牙城・ベルリン大学に進学。忽ち哲学、特にヘーゲルを中心とするドイツ観念論の虜となるが、兼ねてから病気療養中の母のために、退学を余儀なくされる。その後、いくつかの大学に断続的に在籍し、教員資格を手にし、1839年から高等学校の語学と歴史の教師を職を手にし主著『唯一者とその所有』を書き上げる。生涯ベルリンで過ごした、同時にこのころから「フライエン(Freien・自由人の意)」と呼ばれていた青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の人物を中心に、軍人・芸術家・学生などの人物らと、酒場で交わり自由や政治について語り合った。このグループは時として酒乱が高じた振る舞いもした。このグループらと交わり、ブルーノ・バウアーらと共に中心的な人物となる。このグループとの交流により、やがて無政府的な考え方が生じたといえる。ほかに青年ヘーゲル派の機関紙「ライン新聞」に、「芸術と国家」「愛の国家についての試論」などを発表。フォイエルバッハやバウアーからも一目を置かれる存在(あるいは後には論敵に)となる。シュティルナーの自由人ぶりが高じ、無神論的な奇抜な自身の結婚式を行い、夫婦で始めた商売が失敗して離縁され、それが機縁で1845年に教職を辞す羽目ともなる。その後は、翻訳などで生計を立てようとしたが、貧困に苦しみ、孤独のうちに死去した(餓死したとされている)。遺体は、引き取り手がなかったので、かつての盟友ブルーノ・バウアーが引き取り、バウアーによって葬られた。主著『唯一者とその所有』は、マルクスとエンゲルスの共著『ドイツ・イデオロギー』が多くのページを割いて、批判の試みをしていることからも分かるように、シュティルナーの歩んだ孤独な生涯に反して、その思想は当時の思想家たちに多くの議論を巻き起こしたといえる。
[編集] 関連書籍
- 住吉雅美『哄笑するエゴイスト。マックス・シュティルナーの近代合理主義批判』風行社。1997年。
[編集] 関連項目
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