ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach, 1804年7月28日 バイエルン州ランツフート Landshut - 1872年9月13日 ニュルンベルク)は、ドイツの哲学者。青年ヘーゲル派の代表的な存在である。著名な刑法学者のアンゼルム・フォイエルバッハの四男である。
ヘーゲル哲学から出発し、のちに決別。唯物論的な立場から、特に当時のキリスト教に対して激しい批判を行った。また現世的な幸福を説くその思想は、カール・マルクス・フリードリヒ・エンゲルスらに多大な影響を与えた。マルクス的観点から見た哲学史では、ヘーゲルとマルクスの橋渡しをした人物としてその名を見ることができるが、近年のフォイエルバッハ研究では、マルクスには解消されないフォイエルバッハ独自の可能性が指摘されている。
[編集] 生涯
1823年にハイデルベルク大学翌年にはベルリン大学にて神学を学ぶ。ベルリン大学でヘーゲルの講義を聴き、影響を受ける。その後、哲学の研究に勤しみ、1828年には「統一的・普遍的・無限的理性について」にて博士号を取得。エルランゲン大学の私講師に就任。
しかし、1830年に伝統的なキリスト教の批判をした『死および不死についての考察』が問題となり、それが原因で失職(当初は匿名で出版したが、フォイエルバッハの著と判明してしまった)。以後は著述家として生計を立てる。1837年に陶磁器工場を経営する女性と結婚。工場経営にも、生活の糧を求めた。
フォイエルバッハは兼ねてから、かつての師ヘーゲルの抽象的な精神・理念を主体として捉えて、その自己展開の過程によって歴史や自然・世界を見る考え方に疑問を抱いていた。これら抽象的な精神は元々人間の働きであるものなのに、ヘーゲル哲学では独立して考えられていると考え「人間の自己疎外」という表現で批判する。著述家になってからフォイエルバッハは、このヘーゲルの哲学批判を開始する。
1839年には青年ヘーゲル派の機関誌『ハレ年報』において、『ヘーゲル哲学批判のために』を発表。1841年には主著『キリスト教の本質』を刊行。たちまち、青年ヘーゲル派の人をはじめ、多くの若年の学者に歓迎される一方で、保守的な学者や神学者から激しい非難を受けた。
また1843年には、『哲学改革のための暫定的テーゼ』『将来の哲学の根本命題』を刊行。人間主義的唯物論の代表的な存在になる。ただ、1860年に妻の経営する工場が破綻、経済事情が一気に悪化する。その後1866年には『唯心論と唯物論』を発表するが、以後は病床に就き、貧困のうちに死去した。
1848年の3月革命には関心を示したが、基本的に生涯を通じてフォイエルバッハは、政治的・社会的な立場には関心がなかったため、マルクスら革命家・政治家と行動をともにすることはなかったが、その思想はマルクスらの史的唯物論への影響は大きい。
[編集] 関連項目
![]() |
この「ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ」は、哲学に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正して下さる協力者を求めています。(ウィキポータル 哲学) |
カテゴリ: 哲学関連のスタブ項目 | 1804年生 | 1872年没