マツダ・787
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マツダ・787/787B | |
---|---|
マツダ・787B(マツダミュージアム) | |
製造期間 | 1990年-1991年 |
ボディタイプ | 2ドアクーペ |
エンジン | R26B型直列4ローター 2616cc(654×4)(700ps/9000rpm) |
トランスミッション | 6速MT |
駆動方式 | MR |
全長 | 4782mm |
全幅 | 1994mm |
全高 | 1003mm |
ホイールベース | 2662mm |
車両重量 | 830kg |
乗車定員 | 1名 |
最高速度 | 372km/h |
先代 | マツダ・767B |
マツダ787はIMSA-GTP規定、マツダ787BはグループC・カテゴリー2規定に則り、ル・マン24時間レースのために作られたマツダのプロトタイプレーシングカー。
[編集] 概要
前年まで活躍していたマツダ767Bの後継車で、700馬力以上を発生する4ローターの26Bロータリーエンジンを剛結ではく、サブフレームを介して搭載している。1991年のル・マンでの787Bの勝利は、日本メーカー唯一のル・マン制覇及びロータリーエンジン車初の総合優勝という快挙を挙げた。また、あまり知られていない事実だが、カーボンブレーキ装着車として初めてル・マンを制した車種でもある。787Bはナイジェル・ストラウド (Nigel Stroud) により設計された。
1990年のルマンではマツダ787を2台、マツダ767Bを1台投入したが、ユノディエールのシケイン設置を想定してマシン開発をしていなかったため、ストレート重視のマシン設計により予選・決勝ともに結果が振るわず、マツダ787は2台ともリタイアして完走する事が出来ず、前年型のマツダ767Bが20位に終わるという残念な結果に終わった。
そして1991年、改良型のマツダ787Bが2台(55号車、18号車)、前年型のマツダ787が1台(56号車)参加。55号車はレナウン・チャージカラー、18号車と56号車はマツダワークスカラーだった。結果、55号車が優勝、18号車が6位、56号車が8位に入った。
55号車は、フォルカー・バイドラー、ジョニー・ハーバート、ベルトラン・ガショーにより運転され、362周・走行距離4923.2km走った。順調なドライブで2位にまで順位を上げ、しばらくこの状態が続いた。しかし、レース終了3時間前に長らくトップを走っていたメルセデスベンツ・C11がトラブルで緊急ピットイン後にリタイア。まもなく787Bはトップに上がり、レース終了まで首位を守り抜いた。
1991年限りでグループCレギュレーション変更の為ロータリーエンジンが参加出来なくなったので、ロータリーエンジンが参加出来る最後の年に初の優勝を果たした(1993年から再びロータリーエンジンは参加可能になった)。 ロータリーエンジン搭載車はマツダしかなかった事と、1990年までに目立った成績を残していなかった事が幸いし、他メーカーのグループCカー(カテゴリー2)の最低重量が前年の100kg増しの1000kgになっていたのに対して、ロータリーエンジン搭載車は前年より30kg増しの830kgに抑えられたのが有利に働いたと言える(なおマツダの車重は前年モデルでも車検時には規則上の最低車重800kgより、30kg多い830kgだった)。
ル・マン優勝車はマツダが動態保存しており、広島県のマツダ本社内にあるマツダミュージアムに展示されている(イベントなど何らかの理由で貸し出されている間は、レプリカもしくは767Bが展示されている)。2000年11月に放送されたNHKのドキュメンタリー番組プロジェクトXや、テレビ朝日系のカーグラフィックTVで実際に走行するシーンを見ることが出来たのみならず、カーグラフィックTVでは番組出演者田辺憲一と塚原久、自動車ジャーナリストのポール・フレールが試乗していた。その他にも、各地で行われたモータースポーツのイベントにも姿を見せ、走行する勇姿を披露している。
マツダは5台のレプリカを製作し1台をル・マンの博物館に寄贈し、その他4台を所有している。
なお、乗車定員は1名となっているが、Cカー(市販を考慮した試作車)と言うカテゴリーである為、レギュレーション的には助手席がある事になっており、助手席側には簡易シート(状のパット)を貼り付けて、何とか乗車する事も可能ではある。