マヘリア・ジャクソン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マヘリア・ジャクソン(Mahalia Jackson, 1911年10月26日 - 1972年1月27日)はアメリカ合衆国のアフロ・アメリカン女性歌手。
ジャズやゴスペル、黒人霊歌を得意とし、現在もゴスペル界最高峰の歌手として語り継がれている。
目次 |
[編集] 概要
ニューオリンズ隣のBlack Pearlと呼ばれる地区で育ちながら、バプティスト教会で唄い始める。1927年にシカゴへ移り、ゴスペルグループであるジョンソン・ブラザーズのメンバーとしてプロの音楽活動を開始する。
1937年にソロとして初のレコーディング(「God's Gonna Separate the Wheat from the Tares」)を行うが売上は芳しくなかった。しかしこのレコーディングを切掛けに、音楽関係者たちから実力を認められるようになり、有名なコンサートへ出演する機運に恵まれる。
その後はコンサート活動に専念、暫くレコーディング活動から離れるが、1946年にアポロ・レコードと契約してから録音した幾つかの作品によって次第に広く一般にも知られるようになっていった。もっともレコードの売上自体はまだまだ不調続きであったが、実力に伴う知名度は浸透していった。
1948年の「Move on up a Little Higher」によって、ようやく商業的にも成功を収める。レコードの急激な売上上昇に追いつかず、レコードショップは在庫を常に切らした状態だったようだ。彼女はアメリカ国内のみならず、ヨーロッパでも有名になり、「I Can Put My Trust in Jesus」によってフランス・アカデミーから賞を受けた。その後CBSラジオで自身の番組を持ち、1954年にはコロンビア・レコードと契約した。
商業的なメインストリーム市場での成功によって、彼女の音楽からリアルなゴスペル風味が失われたと感じるゴスペル純粋主義者もいた。
[編集] 後期
60年代になってもなお旺盛に音楽活動を行い、ニューポート・ジャズ・フェスティバルやケネディ大統領の就任式でも演奏した。また親交の深かったマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの告別式に於いても歌唱を捧げている。
1971年に来日、渋谷公会堂で公演した。(観客のひとりにデビュー間もない頃の浅川マキが居り、当時のことを克明に記憶している。その出来事は浅川マキのエッセイやインタビューなどで度々話題となる。)
1972年1月27日、糖尿病に因る心臓麻痺(心不全)のため、イリノイ州シカゴで歿。 60歳。
墓所はルイジアナ州プロヴィデンス共同墓地にある。
死後、彼女はゴスペル・ミュージック協会から「ゴスペル・ミュージックの名誉」との称号を与えられている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Biography at FemBio – Notable Women International
- Mahalia Jackson at Find-A-Grave
- Une biographie détaillée
カテゴリ: ジャズ・ボーカリスト | アフリカ系アメリカ人のミュージシャン | 1911年生 | 1972年没 | 歌手に関するスタブ