マリアンネ・ファン・オラニエ=ナッサウ
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マリアンネ・ファン・オラニエ=ナッサウ(Marianne van Oranje-Nassau, 1810年5月9日 - 1883年5月29日)は、オランダの王族。全名はヴィルヘルミナ・フレデリカ・ルイーゼ・シャルロッテ・マリアンネ(Wilhelmina Frederika Louise Charlotte Marianne)。オランダ王ヴィレム1世の次女で、プロイセン王子アルブレヒトの妃となった。
マリアンネは1810年5月9日、オラニエ公ヴィレム6世(後のオランダ王ヴィレム1世)とその妃であったプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の王女ヴィルヘルミーネの間に第四子(末子)として父の亡命先であるベルリンで生まれた。
1828年、マリアンネに対して前スウェーデン王グスタフ4世アドルフの長男グスタフとの縁談が持ち上がった。しかしこれはスウェーデン王カール14世ヨハンらの強い反対を受け破談となり、マリアンネはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の王子アルブレヒトと結婚した。
ところがマリアンネは1845年に家族を捨て、フォールブルフ(南ホラント州)で愛人のヨハネス・ファン・ロッスム(1809年 - 1873年)と暮らし始めた。更に1949年に彼との間に子供ができるに及んでアルブレヒトとの離婚が成立し、以後マリアンネはハーグとベルリンの双方の宮廷から絶縁状態となった。
その後マリアンネはラインガウのラインハルツハウゼン城(現ヘッセン州エルバッハ)に住み、1883年5月29日に同地で歿した。遺体はラインハルツハウゼン城のヨハネス・ファン・ロッスムや庶子ヨハネス・ヴィレム・ファン・ラインハルツハウゼンの隣に葬られている。
[編集] 子女
マリアンネとアルブレヒトは1830年9月14日にハーグで結婚した。二人の間には以下の一男三女が生まれた。
- フリーデリケ・ルイーゼ・ヴィルヘルミーネ・マリアンネ・シャルロッテ(1831年 - 1855年、ザクセン=マイニンゲン公ゲオルク2世妃)
- 子(1832年)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラウス・アルブレヒト(1837年 - 1906年、ブラウンシュヴァイク公国摂政)
- フリーデリケ・ルイーゼ・ヴィルヘルミーネ・エリーザベト(1840年)
- フリーデリケ・ヴィルヘルミーネ・ルイーゼ・エリーザベト・アレクサンドリーネ(1842年 - 1892年、メクレンブルク=シュヴェリーン大公子ヴィルヘルム妃)
また、愛人のヨハネス・ファン・ロッスムとの間に生まれた庶子として男子一人が知られている。
- ヨハネス・ヴィレム・ファン・ラインハルツハウゼン (1849年 - 1861年)
カテゴリ: オランダ王室 | ホーエンツォレルン家 | 1830年生 | 1883年没