グスタフ4世アドルフ (スウェーデン王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
グスタフ4世アドルフ(Gustav IV Adolf,1778年11月1日 - 1837年2月7日)は、スウェーデン・ホルシュタイン・ゴットルプ王朝第3代国王(在位:1792年 - 1809年)。グスタフ3世とデンマーク王フレゼリク5世の娘ソフィー・マグダレーナの子。
目次 |
[編集] 即位
グスタフ4世は、1792年3月29日に父グスタフ3世が死去した事を受け、国王に即位したが、13歳と幼く、摂政制が置かれた。父の死が衝撃的な出来事であった為、スウェーデンの王位をこの様な形で継承した事は、彼にとっては、不幸以外の何物でもなかった。年少時の彼の王位は、苦痛以外何物でもなく、摂政による保守的な国政は、父王の治世とは大きく異なり、グスタフ4世には、何の感銘も与えなかった。また彼は、父王の外遊の為、常に孤独であった。この孤独癖と、母より受け継いだ冷酷で内向的な性格は、後年、彼の統治に影を落す事になった。
彼は1796年に親政を開始したが、スウェーデンは国際的な諸問題に直面していた。特にフランス革命によって生じたフランス革命戦争の混乱であった。特に革命戦争は、ヨーロッパ諸国を巻き込んだ動乱、ナポレオン戦争へと発展していった。この様な中でグスタフ4世は、外交において致命的な誤りを犯し、大北方戦争以来のスウェーデンの存亡の危機を与えてしまうのである。
グスタフ4世は、19歳の時、神聖ローマ帝国諸侯バーデン公女フレデリカと結婚した。グスタフ、ゾフィー・ヴィルヘルミーネ(バーデン大公妃)、カール・グスタフ、アマリア、ケーキリア(オルデンブルク大公妃)の5人の子をもうけている。
[編集] 政策
親政を開始したグスタフ4世の当初の治世はまず、父グスタフ3世の築いた欧州における地位をいかに保つかであった。かつてスウェーデンは、大国フランス・ブルボン朝と友好関係を築くことが外交における指針であった。しかしこれがフランス革命で瓦解すると、スウェーデンは自力で自国の安全を保たねばならなくなり、それは、必然的に大国ロシア帝国との同盟を意味した。これは大北方戦争以来のスウェーデンの対外政策の転換であった。その為にグスタフ3世は、1791年にロシアとの8年間の軍事同盟を結んでいた。彼もまた、この政策を引き継ぎ、1799年にロシアと8年間の軍事同盟を締結するのである。これは彼にとっては、外交的な成功であった。
しかしグスタフ4世が、この時代、外交政策の主軸としたのは、フランス革命に対する反革命政策である。父が1791年に「反革命十字軍」を画策した様に、彼もまた、父の政策を引き継ぐのである。そして、フランス革命において暗躍したフェルセン伯爵を復権させるのである。この時代、欧州諸国は革命戦争に巻き込まれていたが、スウェーデンはこの戦争に参戦していなかった。その為、長期化した戦争の仲介役として振舞い、その仲介人として、フェルセンが講和会議であるラシュタット会議に派遣されるのである。しかしこの会議は、結果として戦争当事者間の決裂に至り、グスタフ4世は、仲介国としての名声を上げられる事はなかった。
その後スウェーデンは、ロシアとの同盟の関係にあった為、イギリスの地中海進出に難色を示し、圧力をかける為にデンマークと共に武装中立同盟を結ぶのである(1800年)。イギリスに圧力をかける政策が、翌年のイギリスのデンマーク攻撃によって崩壊すると、外交政策の限界を感じたグスタフ4世は、イギリスと和解する。これは、当時、フランスにおいて誕生したナポレオン政権に対する打倒に、欧州諸国が一致団結して行う事が、グスタフ4世の本心であった事が上げられる。しかしそれこそがグスタフ4世を破滅へと導く道程となるのである。グスタフ4世は、革命を敵視し、憎悪と言えるまで感情的となっていった。革命を直接体験したフェルセン、革命と革命戦争の恐怖を味わった王妃フレデリカからその実情を知らされ、偏執と言えるまでの革命に対する憎悪の念を抱く様になるのである。しかし、こうした彼の性格や外交政策は、スウェーデン国民にとって重荷となり、その人格と相まって、父王の様な人気を博すことが出来なかった。
[編集] ナポレオン戦争
1803年までは、比較的中立的な立場であったスウェーデンだが、1804年にフランスで起きたアンギャン公処刑事件に、グスタフ4世は脅威と憤りを憶えるのである。この王族殺しは、欧州諸国に衝撃を与えたが、スウェーデンでもそれは同じ事であった。ナポレオンを世界が揺り起したアンチキリスト、暴君と見ていたグスタフ4世は、「ナポレオンとは、和解せぬ事を誓った」と声明し、ナポレオンとの対決姿勢を示したのである。グスタフ4世は直ちに軍を編成し、折から始っていたナポレオン戦争に参戦する。そして対仏大同盟に参画するのである。しかし、反ナポレオンとして団結した第三次対仏大同盟、第四次対仏大同盟は、いずれもナポレオンの前に屈するのである。
戦争に勝利したナポレオンは、1806年に大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発し、イギリスとの通商を禁じた。スウェーデンでは不況を招いたが、グスタフ4世は、盲目的な反ナポレオンの立場からこれを拒否した。ナポレオンは激怒し、スウェーデンを大陸封鎖令に引き入れるため、1807年、ロシアのアレクサンドル1世とティルジットの和約において属領フィンランドの自由処分をアレクサンドル1世に約束するのである。フィンランドの獲得権を得たアレクサンドル1世は、当初は、グスタフ4世にナポレオンとの和解を要請するも、グスタフ4世はそれを拒否し、イギリスと同盟を画策し、ナポレオン、ロシアへの対決姿勢を貫いた。しかしこれはグスタフ4世にとって致命的な失策であった。ナポレオンを敵視するあまり、グスタフ4世は、冷静さを失ったのである。すでにアレクサンドル1世は、ナポレオンから開戦の同意を得ており、また8年間の両国の軍事同盟の期限も終了していた。開戦の口実を得たアレクサンドル1世によってフィンランド侵攻が開始されるのである(フィンランド戦争)。1808年までには、フィンランドの大半をロシアに占領され、ドイツ側の対外領ポンメルンもフランス軍によって奪われるのである。戦争は完全にスウェーデンの敗勢であった。しかしグスタフ4世は、敗北を認めず、1809年に徴兵を行い、自らフィンランドに親征を行った。だが、圧倒的な軍勢でこれを迎え撃ったロシア軍の前に惨憺たる大敗を喫し、グスタフ4世は、スウェーデンへと逃亡した。勢いを買ったロシア軍は、オーランド諸島まで接収し、その脅威は、首都ストックホルムにまで及んだのである。
[編集] 追放
スウェーデン国内では、グスタフ4世の失政に国民の怒りが頂点に達しており、それを看破した軍人、貴族らがクーデターを起し、グスタフ4世は幽閉された(1809年3月)。直ちに新政府は、グスタフ4世の王位を剥奪し、叔父にあたるカール・ヨハンが摂政に任命された。幽閉されたグスタフ4世は、失意の底にあった。王妃と子供たちの来訪によって一時的に明るさが戻ったが、彼の追放が決定されると王妃とも離婚を余儀なくされた。年少の王子の継承権も否定され、子供たちとも離別させられた。彼は全てを失ったのである。
グスタフ4世は、スウェーデンから追放された後、貧困の中で欧州諸国を放浪する身となり、晩年に精神に異常を来し、スイスで没した。元国王のグスタフ4世は最後は、余りにも惨めであったという。
強情でタカ派であったグスタフ4世は、無能呼ばわりされる事が多々あるが、当時のヨーロッパ情勢の中では致し方なかった面もある。列強のパワーゲームに左右され、生き残りをかけた熾烈な争いの中では、小国の運命はかくも厳しかったのである。グスタフ4世は、内政にも尽し、スウェーデンを護る為に戦った。しかし彼の性格や、統治力の資質の欠如は、彼自身の破滅を招いたと言えよう。革命やナポレオンに対する憎悪の念が消せぬまま、動乱に巻き込まれたのは、彼にとっても、スウェーデンにとっても非運だったのである。彼の事実上の廃位と、フィンランドの喪失は、名目的に継続して来た「バルト帝国」(スウェーデン=フィンランド)の崩壊を意味する事となった。そして、スウェーデンにおける絶対君主制の時代も終りを告げたのである。
[編集] 外部リンク
|
|
|