マリア・クリスティナ・デ・ボルボーン
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マリア・クリスティナ・デ・ボルボーン=ドス・シシリアス(María Cristina de Borbón-Dos Sicilias, 1806年4月27日 - 1878年8月22日)は、スペイン王フェルナンド7世の妃。父は両シチリア王フランチェスコ1世、母はスペイン王カルロス4世の娘マリア・イサベル。同母妹テレサはブラジル皇帝ペドロ2世の皇后。
1829年、叔父にあたるフェルナンド7世と結婚。翌年に長女のイサベル(のちのイサベル2世)が生まれる。王が病床につくと、イサベルの王位継承を王と議会に承認させた。
しかし、王弟モリナ伯カルロスがサリカ法の男子相続の規定によって自分に王位継承の権利があると主張し、全国の保守封建勢力を動かして内乱(カルリスタ戦争)を起こした。マリア・クリスティナはこれと対抗するために自由主義勢力の支持を仰いだが、戦争が1839年に終結すると保守化に傾いたために、1840年にバルドメロ・エスパルテロ将軍のクーデターをうけて亡命した。
エスパルテロの失脚後帰国し、再び摂政となったが、反動政策と宮廷の腐敗のために1853年、オドンネル将軍のクーデターが起こり、フランスに亡命した。
1878年、ルアーブルで死去した。