モーリス・グリーン (陸上選手)
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イギリスの作曲家については、モーリス・グリーン (作曲家)を参照。
男子 陸上競技 | ||
金 | 2000 | 100m |
金 | 2000 | 4×100mリレー |
銀 | 2004 | 4×100mリレー |
銅 | 2004 | 100m |
モーリス・グリーン(Maurice Greene, 1974年7月23日 - )は、アメリカ合衆国カンザス州カンザスシティ出身の短距離陸上選手で男子100メートル走の元世界記録保持者。HSI(ハイ・スピード・インテリジェントリー)所属。スポンサー:アディダス、身長175cm、ベスト体重75kg。スタート方法は右前バンチスタートのミディアムで腕はワイドタイプ。前半逃げ切り型。左利き。
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[編集] 来歴
4歳上の兄アーネストの影響により小学4年のころからスプリントをはじめる。当時指導を受けていたコーチの勧めにより1つ上の学年のレースに出場するがあっさりと優勝。このころより類まれな才能を発揮していた。
しかし高校に進学するようになるとあまりいい結果は残せず、州の大会で優勝する程度にとどまっていた。高校卒業後も怪我により思うように記録は伸びず、カンザスシティ短大からパーク大に転校し、最終的にはナイキ・セントラルへと所属を転々としていた。21歳(95年)のときに全米選手権で2位に入りイェーテボリ世界選手権に出場するも2次予選で敗退。ハンバーガーショップの店員・倉庫番・競争犬の世話などのアルバイトで生計を立てるという苦しい選手生活を送る中、怪我の影響で翌年のアトランタ五輪の出場権も逃してしまう。
そのアトランタ五輪におけるドノヴァン・ベイリー(カナダ)の世界新記録での優勝を目の当たりにし、故郷カンザスと幼少のころからのコーチであったアル・ボブソンの元を離れる決心をする。そして、ロサンゼルスで現コーチである元400m世界記録保持者のジョン・スミスに出会いHSI入り。
これが転機となり急成長を遂げ、無名のまま出場した97年アテネ世界選手権では大本命と目された前年のチャンピオン、ドノヴァン・ベイリーを序盤からリードし、9秒86の大会タイ記録で優勝。大きな注目を浴びる。
98年にはマドリードで行われた世界室内選手権男子60mにおいて6秒39の世界記録を樹立。続く99年6月のアテネ国際グランプリにおいては当時の世界記録9秒84を100分の5秒短縮(電気計時では歴代最高の更新幅)する9秒79という驚異的な世界新記録(当時)を樹立した(奇しくもこのタイムは11年前にカナダのベン・ジョンソンがソウル五輪で記録した幻の記録と同タイムであった)。
そのままの勢いで出場した同年8月のセビリア世界選手権においてはブルニー・スリン(カナダ)の9秒84という前世界記録に並ぶ好タイムを振り切り9秒80という大会新で優勝。同大会200mと、アンカーを務めた4×100mRでも優勝し、この大会3冠に輝いた。
そしてついに2000年のシドニー五輪100mでは9秒87の好タイムで圧勝。念願の五輪金メダルを手にした。4×100mRでも優勝し、大会2冠を獲得。2001年のエドモントン世界選手権においても、80m付近で肉離れを起こし、足を引きずりながら9秒82で優勝。しかしこれを最後に世界大会の表彰台からは遠のくことになる。
2003年のパリ世界選手権には故障を抱えながらもワイルドカード(前大会優勝者が国内予選なしで得られる出場権)を使い強行出場。結果、準決勝で肉離れを起こし減速、8着で準決勝敗退という無残な結果に終わった。さらにこの年バイク事故を起こし骨折。度重なる不運に見舞われた。
2004年には一時復活を遂げ、全米選手権に優勝し、アテネ五輪に出場。9秒87の好タイムをマークし、銅メダルを獲得。4×100mRではアンカーを務め、メンバーのバトンミスもあってイギリスのマーク・ルイス・フランシスを捉えることが出来なかったものの、銀メダルを獲得したのだが、翌2005年の全米選手権決勝ではレース中左太ももを痛め、途中棄権。ヘルシンキ世界選手権の代表権を逃してしまう。同世界選手権では4×100mRにエントリーしたが、1走と2走の間のバトンミスによりアンカーであった彼は走ることが出来なかった。
最近はチーム内の若手育成に力を入れつつ、33歳で迎える2007年の大阪世界選手権と2008年の北京五輪をターゲットに虎視眈々と王者としての復活のチャンスをうかがっているようである。
[編集] 特徴
レースパターンは先行逃げ切り型。とはいえモーリス・グリーンの走法は従来の前半一気に引き離し、後半で他選手に迫られながらフィニッシュするというパターンとは違い、前半から飛び出し、その後もフィニッシュ地点までスピードを維持し、フィニッシュするという新しいパターンである。 このレースパターンを実現するために以下のように100mを3区間に区切り、レースを展開する。
- ドライブフェーズ
- 飛び出し角35度でスタートし、20m地点まで頭を上げずに低い姿勢を維持する加速区間。これにより大腿四頭筋、下腿三頭筋の瞬発力をフルに活用すると同時に後半必要な持続力のある大腿二頭筋(ハムストリング)を温存することが出来る。
- トランジッション
- 20m地点から徐々に上体を起こしていき、40m地点で完全に上体を起こす。前半から後半の走りへと滑らかにつなぐ移行区間。
- スプリントフェーズ
- 前半温存していたハムストリングを使い、最高スピードへと到達する(瞬間では42km/hにも達する)疾走区間。ここではハムストリングの他にもうひとつ重要な役割をする、腸腰筋や腸骨筋などの深腹筋群の活用がポイントとなる。この筋群を強化することにより、後脚のリカバリーを早め、スピードの低下を防ぐ。強靭な腹筋を得るためにHSIでは1日に500回以上の腹筋トレーニングのノルマが課せられるという。
[編集] 主な記録
- 1995年 全米陸上選手権 100m 銀メダル
- 1997年 全米陸上選手権 100m 金メダル
- 1997年 世界陸上アテネ大会 100m 金メダル
- 1999年 6月16日 アテネ(ギリシャ) 100m【9秒79】世界新記録(当時)
- 1999年 全米陸上選手権 200m 金メダル
- 1999年 世界陸上セビリア大会 100m, 200m, 400mリレー 金メダル
- 2000年 全米陸上選手権(全米オリンピック予選) 100m【9秒91】優勝 (通算47度目の9秒台)
- 2000年 シドニーオリンピック 100m【9秒87】金メダル, 400mリレー 金メダル
- 2001年 世界陸上エドモントン大会 100m9秒82 金メダル
- 2004年 全米陸上選手権 100m9秒91 金メダル、 アテネオリンピック100m9秒87 銅メダル、 400mリレー38秒09 銀メダル
[編集] 外部リンク
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