ラクシュミー・バーイー
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ラクシュミー・バーイー (लक्ष्मीबाई, Lakshmibai)(1835年? - 1858年6月17日)は、インド中部の小王国ジャーンスィーの王妃。インド大反乱においてイギリス軍相手に勇戦し、「インドのジャンヌ・ダルク」と称される。
生年は定かではなく、1835年説の他1820年代後半(1828年頃)説もある。没落したマラータ貴族の出身とされ、幼い頃にはマラータ同盟の宰相バージー・ラーオ2世に庇護されていたというがはっきりしない。少女時代より剣術を嗜み乗馬を好んだというが、これも伝説の域を出ない。
彼女がはっきりとした記録に現れるようになるのは、1842年にジャーンスィーの国王ガンガーダル・ラーオに嫁いでからである。ジャーンスィーは古来交通の要衝として繁栄していた小王国で、マラータ同盟の一角としてイギリス総督に宥和的な政策を取っていた。王との間には一子を設けたがすぐに病没し、また総督が交代してイギリス側が「失権の原理」政策(後継者のいない国は東インド会社に併合する、というもの)を推進したため、養子を迎えると共に王国の存続を図るべく奔走したが強硬政策に転じたイギリス側は全く取り合わなかった。 1854年に王が病没すると、ジャーンスィーはイギリスに併合される。城の接収時にラクシュミーが告げた拒絶の言葉「メーレー・ジャーンスィー・ナヒン・デーンゲー(मेरे झाँसी नहीं देंगे/我がジャーンスィーは決して放棄しない)」は今日でも良く知られている。
王国を失った後の3年間、隠棲のラクシュミーは表立った反英活動は行っていない。しかし1857年にインド大反乱が勃発すると、ジャーンスィーでもシパーヒーと民衆が蜂起し、城に駐留していたイギリス軍を降伏させ捕虜を虐殺すると、反乱軍とイギリスの仲介を図ろうとした彼女にも虐殺加担の嫌疑が掛かった。更に、シパーヒー達がデリーに転進してジャーンスィーは空白地帯になってしまい、民衆の推戴を受けたラクシュミーはジャーンスィーの執政となる。私財を投じて集めた傭兵と民衆より募った義勇軍を率いた彼女は、イギリスと結ぶことで利権を得ていた近隣の領主の攻撃を自ら陣頭に立って撃退し、一躍反英闘争の旗手として知られるようになった。
この事でかえってイギリス側から危険視されるようになってしまったジャーンスィーは、翌年イギリス軍による攻撃を受ける事になる。近代装備を持つ圧倒的な大軍に対し女子供まで含んだ義勇兵を中心に対抗したジャーンスィー軍は半月の間頑強な抵抗を続け、余りの苦戦振りにイギリスの指揮官ローズ少将は「理由は十分すぎるほど明らかである。彼らは王妃のために、そして自分たちの国の独立のために闘っているのだ」と書き残している。ラクシュミーも自らライフルを手に戦ったが、半月の篭城戦の末城は陥落。民衆の懇願を受けたラクシュミーは僅かな手勢と共に城を脱出した。途中で一端イギリス軍に逮捕されたものの、護送のイギリスの士官を手づから斬殺して脱出したという逸話が残っている。
脱出したラクシュミーはカールビー城にて他の反乱軍指導者達と合流するが、落としどころを探っていた他の指導者達と徹底抗戦を叫ぶ彼女とでは意見が合わず、女性ということもあり孤立することになる。ここもイギリス軍の攻撃を受けて陥落すると、再び脱出した彼女は計略を以ってグワーリオル城を無血奪取し、ここを拠点とした。 これに衝撃を受けたイギリス軍は再び大軍を差し向けて攻撃、迎撃すべく出陣したラクシュミーは前線にて指揮中に狙撃され、戦死した。享年23という。ラクシュミーと度々戦った敵将ローズは彼女の遺体を荼毘に付し、貴人に対する礼を以て葬儀を行ったという。
ラクシュミーはその際立った美貌だけでなく、民衆を惹き付けてやまないカリスマ性と女ながらに優秀な戦術能力を備え、かつジャーンスィー王国を維持すべくイギリス総督に送った書簡は彼女がインドだけでなくヨーロッパの法律や外交、歴史にも通じていた事を示している。敵手であったイギリスの士官が残した言葉を借りれば「もっともすぐれた、もっとも勇敢なるもの」だった。ネルーがその著書の中で「名声は群を抜き、今もって人々の敬愛をあつめている人物」と記している通り、彼女は今でもインドの英雄として崇敬を集めている。
なお、インド各地にある銅像では大抵彼女はサリーを着ていることになっているが、実際は絹のブラウスと西洋風の乗馬ズボンといういでたちだったらしい。