ラファエル・トルヒーヨ
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ラファエル・レオニダス・トルヒーヨ・モリナ(Rafael Leónidas Trujillo Molina 1891年10月24日 - 1961年5月30日)はドミニカ共和国の政治家、軍人。31年間の長期独裁体制をしき国家経済の大部分を私物化した。
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[編集] 生涯
1891年、郵便局員の息子としてサンクリストバルの村に生まれる。わずかな教育を受けたのち、電報局に勤めたが1918年に国家警察隊に入隊。アメリカ占領軍に取り入り異例の昇進を重ね1924年に少佐、1928年に陸軍参謀総長に昇進。軍内最高実力者の地位を確立する。
1930年に大統領選に立候補するとあらゆる不正を行い「95%の得票を勝ち取り」選挙に勝利する。軍は選挙管理委員会や反対派に暴力の脅迫をした。同年8月に第一期目の大統領に就任するとドミニカ党を結成して以後31年間にわたり独裁制をしいた。トルヒーヨ時代には新しい病院や住宅が多数たてられたほか、年金計画の導入、公共の医療設備や港、道路の改善がみられた。しかし、この間全耕地の1/3を横領、砂糖工場・コーヒー・ビール・タバコ産業を一族の手に収めてその資産は10億ドルにのぼった。経済は発展し、近代化がはかられたが多くの政敵を亡命、国外追放に追い込み1934年、独裁色の強い新憲法を憲法制定会議に承認させる。1935年には1844年以来のハイチとの国境紛争も解決した。
1937年、米国系砂糖きび農場で、ハイチからの出稼ぎ労働者によるストライキが発生する。これをきっかけにトルヒーヨは婦女子をふくむハイチ人皆殺し作戦を指示した。その結果1万5千の兵が、国境の「皆殺し川」以東に住むハイチ人2万人(一説に5万人)を虐殺した。
サントドミンゴをトルヒーヨ市と改称させて市内に1200の自らの像を建てさせた。また1940年には外債の完全償還に成功してアメリカはドミニカの関税管理を解いためドミニカ議会から「財政上の独立回復者」と表彰された。1941年12月にアメリカが第2次世界大戦に参戦すると、ドミニカ共和国も枢軸国に宣戦布告した。大戦後に国際連合の設立にくわわり、1948年には米州機構(OAS)に加盟した。
しかし、1956年に元サント・ドミンゴ大学教授でトルヒーヨの弾圧を逃れ米国に亡命していたニューヨークのコロンビア大学講師ヘスス・ガリンデス(彼はトルヒーヨの悪行を公にした本を発行していた)が秘密警察の手によりニューヨーク地下鉄内で誘拐され消息不明となる事件が発生して国際的な非難を受けた。
また中米各地から追われた独裁者たちの亡命地ともなり近隣諸国との関係が悪化。1960年には教会とも対立して同年1月、自身の暗殺計画が発覚してトルヒーヨは反対派に対し大弾圧をした。2月、ベネズエラは、ドミニカ共和国を「人権に対する野蛮な侵害」で、米州機構(OAS)に告発。OAS理事会はこの訴えをとりあげ、4つの加盟国代表からなる実情調査団を派遣する。OAS総会は、ドミニカ共和国が市民の権利を侵害したとする実情調査団の報告を受け、トルヒーヨ非難決議を採択した。
そんななか6月にベネズエラのカラカスでベネズエラ大統領暗殺未遂事件が発生した。8月にサンホセでのOAS外相会議でトルヒーヨが事件の黒幕だったことが暴露される。OASはドミニカとの外交制裁(国交断絶)と軍事制裁(武器輸出禁止)を決議。アメリカはドミニカの砂糖輸入割り当てを削減するとともに外交を断絶する。1961年、OAS外相会議でドミニカに対する経済制裁の発動を決議する。アメリカはドミニカに対し経済制裁を発動した。
こうした状況のなかトルヒーヨは5月に自宅から出発して海岸沿いの高速道路にてトルヒーヨ市にむかう途中にCIAに支援された側近フアン・トマス・ディアス将軍の率いる将兵7名に襲撃される。トルヒーヨは負傷しながらもピストルで応戦したが車を停車させられた上、27発の銃弾を全身に撃ち込まれ死亡した。
[編集] 関連作品
- 『族長の秋』(El otoño del patriarca) ガルシア・マルケス(著)
- 『文明崩壊』(Collaps) ジャレド・ダイアモンド(著)…トルヒーヨの環境保護者としての一面について言及
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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