ラーマ2世
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肖像 | |
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基本情報 | |
正式名称 | プッタルートラーナパーライ王 |
タイ語表記 | พระบาทสมเด็จพระพุทธเลิศหล้านภาลัย |
英語表記 | King Buddha Loetla Nabhalai |
別名・通称 | ナパーライ王、ルートナパーライ王 |
称号 | ラーマ2世(รัชกาลที่ ๒) |
王朝・代 | チャクリー王朝2代目 |
統治地域 | 現在のタイ国とラオス、カンボジア |
誕生 | 1767年(タイ仏暦2310年) |
即位期間 | 1809年 - 1824年 (タイ仏暦2352年 - 2367年) |
その他の呼称 | チム(ฉิม) クロムルワンイッサラスントーン王子 (เจ้าฟ้ากรมหลวงอิศรสุนทร) 鄭明(ていめい、Zhèng Míng) |
前の王 | ラーマ1世 |
後の王 | ラーマ3世 |
ラーマ2世(Rama II、1766年2月26日 - 1824年7月21日)はタイ王国のチャクリー王朝の第2代目の王で、ラーマ1世の息子である。幼名をチムと言う。チムは1782年(タイ仏暦2345年)ラーマ1世が即位するとクロムルワンイッサラスントーン王子の名を戴いた。その後タイの仏教の伝統に則って出家した。1806年(タイ仏暦2349年)の副王の死によって自分が副王になり、皇太子となった。1809年(タイ仏暦2352年)にラーマ1世が崩御したので王に即位。治世の前半はたびたびビルマが攻めてきたが、後半ではビルマがイギリスに占領され、攻めてこなっくなったため、国内の整備などを行った。タイの文豪の一人にも数えられる。文学面での功績は大きいが、ブンナーク家などの貴族に内政を任せっぱなしにしていたので、政治的にはあまり実権を持たなかった。
目次 |
[編集] 武人としてのラーマ2世
- 即位前は父王、ラーマ1世に連れ添われて、戦乱にでていくことが多かったため、戦争も比較的得意だったとされる。
- 即位後には侵攻してきたビルマ軍を破った。
- 1813年にはカンボジアがベトナムと手を組んで反発。以降東部カンボジア以外の地域での支配力を失う。
- 現マレーシア・クダ州を占領しスルタンを廃止した。これが元でマレー半島での勢力拡大をねらっていたイギリス東インド会社との関係が悪化した。
[編集] 文人としてのラーマ2世
- タイの詩聖スントーン・プーなどの詩人を保護し、貴族を集めて史の競作を行った。
- スントーン・プーやラーマ3世らとの共作・競作作品に『クン・チャーン=クン・ペーン』があり、タイを代表する文学の一つでもある。
- 自らも作詩した。代表作に『イナオ』、『サントーン』、などがある。
- ラーマ1世が破壊したワット・スタットの修復をしたときに門に彫刻を行った。
[編集] その他の功績
- パトゥムターニーからモン族をサムットプラーカーンに強制移住させプラプラデーンの街を建設した。
- 国旗に白像とチャクラを置き新たにデザインした。
[編集] 関連記事
先代: ラーマ1世 |
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