リアド・アル・ソルハ
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リアド・アル・ソルハ(1894年-1951年7月17日、ラテン語表記Riad as-Solh、アラビア語表記رياض الصلح)は、レバノン共和国の首相を2期務めた。スンナ派ムスリムの政治リーダーである。
第1期ソルハ内閣は、レバノン独立前夜の1942年7月26日から1943年5月22日までである。いわゆる「ソルハ方式」を提案し、大レバノンの国境を維持したまま、完全な独立を図り、その独立を基礎とした上で、アラブ諸国との最大限の協力を行う内容のものであったが、この方式は、フランスの反感を買い、内閣は崩壊してしまった。
第2期ソルハ内閣は、マロン派大統領であるビシャラ・アル・フーリーと協力する上での宗派間のバランスを図った内閣であった。フーリーは、ムスリムの意見の集約する手腕を持っていたソルハを評価しており、ムスリムもまた、ソルハが存在している限り、自らの利益が政策に反映されることもあって、大きな信頼を寄せていた。
しかし、ソルハは、1951年7月、ヨルダン訪問中にシリア民族党の党員によって、暗殺されてしまった。彼の暗殺によって、民族間のバランスの上に立っていたフーリー政権は、ムスリムの支持を徐々に失っていき、ドゥルーズ出身のカマル・ジュンブラートの台頭を許すこととなった。
ソルハは、レバノン独立闘争の中で最も重要な人物であるのと同時に、様々な宗派が存在するレバノンにおいて、独立のために宗派間の協力を可能にする個性を持った人物として評価されるべきである。