ルイ・フィリップ2世 (オルレアン公)
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オルレアン公およびシャルトル公ルイ・フィリップ2世ジョゼフ(Louis Philippe II Joseph, duc de Chartres, puis duc d'Orléans, 1747年4月13日 - 1793年11月6日)は、フランスの王族、革命指導者。フランス王国の5%が領地である最大の富豪だった。王位を狙う野心家で宮廷と対立した。そのため自由主義貴族の代表になり、王妃マリー・アントワネットの敵であった。 フランス革命が勃発すると歓迎して「平等のフィリップ」フィリップ・エガリテ(Philippe Égalité)と自称した。息子は七月王政のルイ・フィリップである。
[編集] 生涯
オルレアン公ルイ・フィリップ1世とコンティ公ルイ・アルマン2世の娘ルイーズ・アンリエット・ド・ブルボン=コンティの間にサン・クルーで生まれる。モンパンシエ公、シャルトル公となり、1769年、ルイ14世の庶系の曾孫娘マリー・アデライド・ド・ブルボン=パンティエーヴルと結婚し、1785年に父の死によってオルレアン公となった。私生活は、放蕩かつ無節操で、民衆に開放した自宅の庭パレ・ロワイヤルは、政治的な危険分子はもちろん、隠微な人々の溜まり場にもなった。
アメリカ独立戦争を支持し、首飾り事件が起こるとそれをマリー・アントワネットを攻撃するのに利用した。彼は2度の名士会の代表として宮廷の決定に反対した。多くの裁判管区の貴族から全国三部会に選ばれた彼は、早くから第三身分に加担し、1789年6月25日には進歩的貴族46名の先頭に立って国民議会に合流して、貴族の反乱を主導した。バスティーユを占領することになる民衆は、彼の宮殿パレ・ロワイヤルから行列を組んで出発した。
政敵ラファイエットに敗れて一時イギリス使節となったが、1790年7月に帰国。立憲議会ではミラボーと結んだが、1792年8月10日の事件で王権がなくなり、共和政が宣言されると、元次期国王候補者の彼はうさんくさい目で見られ、それを打ち消そうと国民公会でも最左翼に位置したり、貴族称号を廃止し「平等のフィリップ(フィリップ・エガリテ)」と自称した。1793年1月18日、ルイ16世の処刑にも賛成票を投じた。
1793年3月27日、デュムーリエ将軍が革命政府の打倒とオルレアン家王位擁立を謀って失敗すると、フィリップ・エガリテはジロンド派によって、息子が祖国を見限ったことや、共和制転覆の嫌疑を受けて告発され、4月3日に逮捕され、国王一族とともにマルセイユのサン・ジャン城に幽閉された。彼はルイ16世に取って代わって王位につこうとしたとの容疑を否認したが、パリの革命裁判所で財産を没収され、11月6日の夕刻、革命広場の断頭台で処刑された。