ルイ14世 (フランス王)
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ルイ14世(Louis XIV de France、1638年9月5日-1715年9月1日、在位:1643年-1715年)はブルボン朝における第3代フランス王である。ルイ13世の長子。妻はスペイン王フェリペ4世の娘マリー・テレーズ(マリア・テレサ)。ブルボン朝最盛期の王で「朕(我)は国家なり」(L'état, c'est moi)と宣言し、「太陽王」(Roi-Soleil)と呼ばれた。
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[編集] 生涯
ルイ13世が王妃アンヌ・ドートリッシュを迎えてから23年目にしてやっと生まれた長子である。当時ブルボン王家の男子はルイ13世の弟であるオルレアン公ジャン・バプリスト・ガストンのみであり、ブルボン家はルイ14世の誕生で辛うじて命脈をつないだ。
父の死後は幼くしてフランス国王に即位し、母后アンヌが摂政となり、リシュリューに代り宰相となったマザランの補佐を得てフロンドの乱(1648年-1653年)を鎮圧した。1659年にスペイン王フェリペ4世の娘で父方でも母方でも従妹であるマリー・テレーズ(マリア・テレサ)と結婚。1661年にマザランが死ぬと宰相を置かずに親政を開始する。高等法院の建言権を制限し、コルベールを登用して治世術を学び、中央集権と重商主義政策に基づき、ボシュエの唱える王権神授説・ガリカニスムを掲げ絶対王政を確立した。しかし、ルイ14世はルイーズ・ド・ラヴァリエール、モンテスパン侯爵夫人、マントノン侯爵夫人など、多くの女性達を寵愛し、寵姫達の中で大変浪費が激しかったモンテスパン侯爵夫人への寵愛は、1679年の黒ミサ事件を引き起こした。彼女が顧客となっていたラ・ヴォワザンは、堕胎や毒薬の販売を行なっていた毒殺魔で、この黒ミサ事件には彼女の他にも、多くの貴族達が関与していた事が発覚し、ルイ14世の治世最大の醜聞となった。この事件に関連し、同様のパリ市内の店も数多く摘発され、国王はこの事件に関する書類を全て焼却させた。
フランス国内のプロテスタントやジャンセニストに対しては礼拝の制限や官職やギルドからの追放など弾圧を行い、20万に及ぶ新教徒はヨーロッパ各国や新大陸に亡命し、結果的にフランス資本の海外流出を招いた。ルイ14世は国内には新教徒は存在しないとして1685年にはフォンテーヌブロー王令を下してナントの勅令を廃止する。フランスに残った新教徒の反乱であるカミザールの乱に対しては武力鎮圧を加える。
軍制を整備し、フランドル戦争(遺産帰属戦争、1667年-1668年)、オランダ戦争(フランス・オランダ戦争、1672年-1678年)、ファルツ継承戦争(アウクスブルク同盟戦争、1688年-1696年)、スペイン継承戦争(1702年-1713年)に参加して領土の拡張と国境の画定を行う。対外戦争はフランスの国益にもなるが、ルイ14世の覇権主義は新教徒弾圧と合わせて周辺諸国からの警戒を呼んだ。
1715年に没。死後は曾孫に当たるルイ15世が王位を継承し、甥のオルレアン公フィリップが摂政に就いた。
[編集] 評価
ルイ14世のもとで、西ヨーロッパにおけるフランスの威信がそれまでになく高まったことは議論の余地がない。 ルイ14世は軍備を重視し、積極的な拡大政策を取った。このためフランス領は東部へ拡大した。またスペイン王家の断絶に際しては自らの家系に王位継承を成功させ、フランスの覇権拡大に貢献した。
またルイ14世はヴェルサイユ宮殿を建設し、ラシーヌやボワローなどの詩人を優遇するなど文化の興隆も見た。アンヴァリッドの設立など、彼はたんなる遊興の徒ではなく、国益を重視し公共の福祉に関心をもつ君主であった。しかし戦費調達のために新税を相次いで設け、また放漫財政で国家財政を苦しめ、ために国民は疲弊した。この事が後年のフランス革命の遠因となるのである。
[編集] 歯抜けの太陽王
ルイ14世は、侍医ドクトル・ダガンの主張する「歯はすべての病気の温床である」という説に基づき、12回にわたる手術の末、すべての歯を抜かれた。しかも当時は麻酔もないため、歯はやっとこで引き抜かれ、抜いた後は真っ赤に焼けた鉄の棒を歯茎に押し当て消毒とした。その後、歯の無いルイ14世は、8時間以上かけてくたくたになるまで煮込んだホロホロ鳥や雉などしか食べられなくなった。また、常に胃腸の調子が悪くトイレに頻繁に駆け込んだ。時にはトイレから、家臣たちに命令を下すこともあったという。あまりにもトイレに行く回数が多かったため、衣服にも糞尿のにおいが染み付いてしまっていた。そのため家臣たちは、香水をしみこませたハンカチを鼻に当てて閣議に臨んだ。
[編集] バレエと太陽王
フランスには、1533年にイタリアからカトリーヌ・ド・メディシスによりバレエが持ち込まれ、宮廷において盛んに上演された。ルイ14世が5歳で即位した時にも、5時間に及ぶ盛大なバレエが催され、ルイ14世自らも出演した。
ルイ14世はバレエに魅せられ、バレエを奨励していた。本人も15歳で舞台デビューし、王立舞踏アカデミーを創立した。バレエが現在のようなダンスとして体系づけられたのは、彼の時代の功績である。「太陽王」の異名も、元はバレエで太陽(太陽神)に扮したことから生まれた。
ルイ14世は高いヒール靴を好み、奨励したことでも知られる。美しい脚線美を維持するためにヒール靴を着用している様子は、彼の全身を描いた肖像画にも描かれている(その後、きついバレエシューズによって小さくなった足が貴族の証とされていくようになる。アレクサンドル・デュマの『三銃士』にも、その描写が描かれているシーンがある)。
ルイ14世は1670年に舞台を引退した。
[編集] 出生を巡る様々な俗説
宰相リシュリューやマザランの子であるとの説もあるが、いずれもその可能性は低い。母后アンヌがルイ14世を妊娠した1637年の12月5日は、まだマザランがイタリアにいた時期であり、このマザランが父親という話の方も、単なる噂話である。
こうした俗説が出回る背景には、ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの仲が長い間冷え切っていたという事実がある。アンヌ・ドートリッシュは美女として名高く、例えばイングランドのバッキンガム公爵ジョージ・ヴィリヤーズが公然と言い寄ったこともあるほどだが、何故かルイ13世とは反りが合わなかった。ところがある日、狩りの為遠出したルイ13世は妻アンヌの城館の付近で悪天候に見舞われ、やむなくアンヌの城館に一夜の宿を請う。ルイ14世はこの時の子供であろうというのが最も蓋然性の高い推測である。
また、ルイ14世の治世に実在した謎の囚人(いわゆる「鉄仮面」)の正体を、ルイ14世の兄弟とする説も根強い。この説に想を得たフィクションとしては以下のものが有名である。
- 『鉄仮面』- ダルタニャン物語 第3部『ブラジュロンヌ子爵』、アレクサンドル・デュマ著
- 映画『仮面の男』(1998年)
- 「ブルボンの封印」藤本ひとみ
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
『黄昏のスペイン帝国:オリバーレスとリシュリュー』(色摩力夫)
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