ヴィクトル・ベレンコ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィクトル・イワノヴィッチ・ベレンコ(Виктор Иванович Беленко、Viktor Ivanovich Belenko 、1947年2月15日 - )は、元ソ連防空空軍の軍人。1976年9月6日に当時のソビエトの最新鋭機MiG-25に搭乗し、日本の函館空港に強行着陸し、米国に亡命した。この事件は、ベレンコ中尉亡命事件と言われる。
ヴィクトル・ベレンコは、ナリチクの軍人の家庭に生まれた。彼の父は軍曹で、第二次世界大戦中、パルチザンとして活躍した。彼が2歳の時に両親が離婚し、当初は父の故郷であるドンバス、後にシベリアに移住した。
中等学校時代には航空クラブに所属し、兵役召集後にアルマヴィル高等軍事航空飛行士学校に入校した。学校ではMiG-19、MiG-21の操縦に習熟し、戦闘航空隊の道を歩んだ。当初、防空軍スタヴロポリ高等軍事航空飛行士・航法士学校に配属され、教官となった。これに不満だったベレンコは、第一線部隊への転属を上申し、その結果、沿海州のチェグエフカ空軍基地、防空軍第513戦闘航空連隊に配属された。
連隊勤務中、防空航空隊飛行要員戦闘使用・再教育センターの訓練課程を修了した。ソ連共産党員ともなった。彼の搭乗機は、機体番号31のMiG-25Pだった。この連隊が彼の最後の任地となった。
彼の亡命の動機について、ソ連(現ロシア)では、CIAによる徴募説が広く流布している。実際、KGBの後継機関である連邦保安庁(FSB)の公文書庫には彼に関する資料はなく、このことは、捜査がいまだ継続中であるか、あるいは「スパイ事件」そのものが存在しないことを意味する。しかし、実際のところは軍の劣悪な生活環境など、待遇の悪さに強い不満を持ったことが原因のようである。彼の亡命事件は防空軍パイロットの待遇改善の契機となった。ちなみに、ベレンコは、1995年にモスクワを訪れている。
米国亡命後、ベレンコはCIAの勧告により氏名と居住地を頻繁に変えた。1983年9月の大韓航空機撃墜事件当時、彼はアメリカ国外にいたが緊急に呼び出され、ソ連飛行士の会話の識別及び暗号解読に従事した。この事件後、暫くの間は彼が自動車事故で死亡したという噂が流れた。
ベレンコはまた、トム・クランシーが『レッドオクトーバーを追え』を執筆する際、助言を与えている。
ソ連時代、結婚して一児をもうけていた。亡命後、米国人の女性と結婚、二児をもうけたが、離婚。2006年現在、アイダホ州で航空イベント会社のコンサルタントをしている。