一条政房
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一条政房(いちじょうまさふさ 嘉吉3年(1443年)? - 文明元年10月17日(1469年11月20日)は室町時代の公卿。官位は従二位権大納言。一条教房の長男。
将軍・足利義政の偏諱を受け、政房と名乗った。応仁の乱の時、京都の騒動から避ける為に単独で、後醍醐天皇のゆかりの宿でもあった摂津国福原の福厳寺に隠れた。しかし、1469年10月17日に東軍の長槍を持った兵に心臓を一刺しされ、少しも抵抗せず「南無西方極楽世界阿弥陀仏」と唱えて死んでしまった。その時の服装は御装束のまま直衣狩衣の優美な御姿であったという。
彼の死は父・一条教房をはじめ、祖父・一条兼良や叔父などの一族、天皇や貴族、彼を知っていた東軍・西軍の武将まで悲しませたという。尚、彼を殺した兵は政房と分かった後、自害したとも出家したともいうが分からない。