足利義政
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足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町幕府の第8代征夷大将軍(在位:宝徳元年(1449年)-文明5年(1473年))。
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時代 | 室町時代中期から戦国時代 | |||
生誕 | 永享8年1月2日(1436年1月20日) | |||
死没 | 延徳2年1月7日(1490年1月27日) | |||
別名 | 三寅、三春(幼名)。義成(初名) | |||
戒名 | 慈照院喜山道慶 | |||
墓所 | 京都市上京区の相国寺 | |||
幕府 | 室町幕府征夷大将軍 | |||
氏族 | 足利氏 | |||
父母 | 父:足利義教、母:日野重光の娘・日野重子 | |||
兄弟 | 足利義勝、足利義政、足利義視、足利政知 | |||
妻 | 正室:日野重政の娘・日野富子(妙善院) 側室:大館満冬の娘・今参局 |
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子 | 足利義尚 養子:足利義視、足利義稙、足利義澄 |
目次 |
[編集] 略歴
父は6代将軍の足利義教。母は日野重光の娘で義教の側室である日野重子。乳母で側室に今参局。正室に日野富子。同母弟に足利義視、同母兄に足利義勝。異母弟に足利政知。室町幕府の全盛期を築いた3代将軍足利義満の孫にあたる。
幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らはもっぱら数奇の道を探求した文化人であった。
[編集] 生涯
[編集] 将軍職就任
永享8年(1436年)1月2日、第6代将軍・足利義教の子として生まれる。嘉吉元年(1441年)、父の義教が嘉吉の乱で赤松満祐に殺された後、将軍職は同母兄の足利義勝が継いだが、嘉吉3年(1443年)に第7代将軍の足利義勝も早世したため、義政は管領の畠山持国などの後見を得て、8歳で将軍職に選出され、元服を迎えた宝徳元年(1449年)に正式に第8代将軍として就任した。
[編集] 側近政治への移行
当初の義政は祖父・義満や父・義教の政策を復活させようと試み、また鎌倉公方(後に古河公方)足利成氏と関東管領上杉氏との大規模な内紛(享徳の乱)に対しては成氏追討令を発して異母弟の堀越公方・足利政知を派遣するなどして積極的な介入をするが、三魔と呼ばれる乳母の今参局・烏丸資任・有馬持家をはじめ、将軍家の執事であった伊勢貞親や正室・日野富子の実家の日野氏等の側近が政治に介入していき、将軍としての政治の実権は無いに等しい立場であった。
それを思い知らせる事件が何度か起きている。当時の守護大名では家督相続に関する内紛が多かったが、義政ははじめこれらの相続争いに積極的に介入し、加賀守護であった富樫氏の内紛では管領・細川勝元の反対を受けて義政の意のままに相続権を動かすことができなかった。宝徳3年(1451年)にも尾張守護代であった織田氏の内紛に介入したが、尾張守護である斯波氏の反対を受けて義政の意のままに動かすことはできなかった。こうして、義政の意のままに進むことは何一つとして無く、次第に義政は政治への関心を失っていった。
[編集] 後継者問題から応仁の乱へ
義政には正室の日野富子との間に男子があったが、長禄3年(1459年)に早世してしまった。すると富子は実子の早世は今参局が呪詛したものであるとして、彼女を琵琶湖の沖ノ島に流罪に処した。このため、以後は富子や伊勢貞親ら将軍側近の権勢が強まるようになる。
また、飢饉や災害が相次ぎ、特に寛正2年(1461年)の寛正の大飢饉は京都にも大被害をもたらし、一説では賀茂川の流れが餓死者の死骸のために止まるほどであったとされる。このような内外の状況で完全に政治への意欲を失った義政は、邸宅造営などの土木事業や猿楽、酒宴に溺れていき、寛正5年(1464年)には隠居を考えるようになった。
しかし、富子との間に嫡子が恵まれなかったため、実弟の義尋を還俗させて足利義視と名乗らせ、養子として次期将軍に決定した。
ところが、寛正6年(1465年)に富子に実子(後の足利義尚)が誕生すると、富子は義尚への将軍後継を望み、政権の実力者であった山名持豊(宗全)に協力を頼み、一方の義視は管領の細川勝元と手を結んだ。このため、足利将軍家の家督継承問題が起るが、当の義政はどちらにも将軍職を譲らず、文化的な趣味に興じるなど優柔不断な態度を続けた。その上、先に起こった斯波氏や畠山氏の家督相続問題も関与して、応仁元年(1467年)、遂に応仁の乱が発生する。戦乱は南朝の末裔まで参加する全国規模なものへ発展していった。
しかし義政は戦乱に対処することも無く酒宴や連歌の会を行なうのに終始し、さらに花の御所(京都市上京区)から小川邸へ移り、将軍後継者問題で不和になった富子とも別居を始めた。文明5年(1473年)に西軍の山名持豊(宗全)、東軍の細川勝元の両名が死んだことを契機に、義政は12月に将軍職を子の足利義尚へ譲って正式に隠居した。
[編集] 晩年
富子との不和は相変わらずで、文明7年(1475年)に花の御所が京都市街の戦火で焼失し、富子と息子・足利義尚が小川邸へ移ると、義政は逃げるように東山へ移っている。文明9年(1477年)に応仁の乱は終わるが、義尚とはこの頃から意見の食い違いが起こり、富子ともさらに仲が悪くなっていく。現に当時、室町殿(義尚)に対し、東山殿(義政)と呼ばれ、政治の決定機関がふたつに分裂していたようである。そのためか、応仁の乱後に義政は隠匿し、その後はさらに文化的な活動に拍車がかかった。
文明14年(1482年)には東山山荘(東山殿)の造営をはじめ、祖父・足利義満が建てた金閣をベースにした銀閣などを建てた。文明17年(1485年)5月には、義尚の側近と義政の側近が武力衝突する事件が起こっているなど、義政と義尚の対立は激化する。このため6月、義政は剃髪して出家し、事実上政務から離れることを決めた。
[編集] 最期
子の義尚が延徳元年(1489年)に六角討伐の陣中で死去したため、やむなく政務の場に復帰することを決意するが、正室の日野富子が義政の復帰に反対し、さらに義政自身も中風に倒れて政務を執ることが困難となったため、美濃に亡命していた弟の義視と和睦し、義視の嫡男・足利義材(義稙)を自らの養子に迎えることで第10代将軍に指名して後事を託した。
延徳2年(1490年)1月7日、銀閣の完成を待たずして死去。享年55。
[編集] 人物
- 政治的には無力であったが、一方、文化面では功績を残している。庭師の善阿弥や狩野派の絵師狩野正信、能楽者の音阿弥らを召抱え、東山の地に東山殿を築いた(のちに慈照寺となり、銀閣、東求堂が現在に残る)。この時代の文化を金閣に代表される3代義満時代の華やかな北山文化と対照的に、銀閣に代表されるわび・さびに重きをおいた「東山文化」と呼ばれる。
- 義政が政治的に無力だったのは事実だが、すでに室町幕府は父の義教が暗殺された時点で実質的に崩壊していた。義政に罪があるとしたら、祖父の時代から絶大な影響力を保持していた日野氏や側近の力を抑えきれず、幕府権力の衰退を助長したことにあるといえる。
[編集] 官職位階履歴
- ※ 日付=旧暦
- 1446年(文安3年)10月15日、従五位上に叙す。
- 1447年(文安4年)2月7日、正五位下に昇叙し、侍従に任官。
- 1448年(文安5年)12月26日、左馬頭に転任。
- 1449年(文安6年)4月16日、元服。義成を名乗る。4月29日、征夷大将軍宣下。8月27日、従四位下に昇叙し、参議右に補任。右近衛中将を兼任。
- 1450年(宝徳2年)1月5日、従三位に昇叙。3月29日、権大納言に転任。6月27日、従二位に昇叙。権大納言如元。
- 1453年(享徳2年)3月26日、従一位に昇叙。6月13日、名を義政と改める。
- 1455年(享徳4年)8月27日、右近衛大将兼任。
- 1456年(康正2年)1月5日、右馬寮御監兼務。
- 1458年(長禄2年)7月25日、内大臣に転任。右近衛大将兼任如元。
- 1460年(長禄4年)8月27日、左大臣に転任。右近衛大将兼任如元。
- 1461年(寛正2年)8月9日、右近衛大将辞任。
- 1464年(寛正5年)11月28日、准三宮宣下。
- 1467年(文正2年)9月2日、左大臣辞任。
- 1473年(文明5年)12月19日、征夷大将軍辞職。
- 1485年(文明17年)8月15日、出家。
- 1490年(延徳2年)1月7日、薨去。2月17日、贈太政大臣。
[編集] 登場作品
[編集] 参考文献
- 森田恭二『足利義政の研究』(和泉書院、1993年) ISBN 4870885751
- ドナルド・キーン 著/角地幸男 訳『足利義政 日本美の発見』(中央公論新社、2003年) ISBN 4120033570
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