一条教房
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一条教房(いちじょう のりふさ 応永30年(1423年) - 文明12年10月5日(1480年11月6日))は、室町時代後期の公卿(関白)、荘園領主。一条兼良の長子。母は中御門宣俊の女小林寺殿。一条房家の父。
永享10年(1437年)元服。長禄元年(1457年)左大臣。長禄2年(1458年)関白となる。寛正4年(1463年)に関白を辞す。応仁の乱が勃発した際、弟の興福寺大乗院門主尋尊を頼って奈良に避難する。さらに父兼良が奈良に避難してきたので、父に奈良の避難所を譲り、一条家領のあった土佐国幡多荘に下向する。土佐国人に迎えられて生活の基盤を確保し、父の下向を誘ってみたり、兼良が帰京した後、土佐から邸宅を作るための木材を送ったりしている。文明12年(1480年)10月5日薨去。享年58。号は妙華寺殿、法名宗恵。