丁稚
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丁稚(でっち)とは、江戸時代から第二次世界大戦終結まで行われた商店主育成制度。またはその制度によって入門したばかりの者。また現代でも一般社員(ヒラ社員)が自嘲的に「まだ丁稚です」と比喩的に使う事もある。
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[編集] 主人への道
10歳前後で商店に丁稚として住み込んで使い走りや雑役をし、丁稚の中でも経験年数によって上下関係がある(丁稚の時の呼び名は「*松」で、*には丁稚の一字が入る場合が多い)。丁稚の仕事は多岐に渡り、前述の他に蔵への品物の出し入れや力仕事が多く、住み込みの為に番頭や手代から礼儀作法や商人としての「いろは」を徹底的に叩き込まれる。また入り口付近に立って呼び込みや力仕事が主な仕事で、商品を扱う事は無い。他店や客からは「丁稚どん」又は「小僧」「坊主」などと呼ばれる。
その後、主人(船場言葉で「だんさん」)の裁量で手代となる。手代はその字の通り、主人や番頭の手足となって働く(手代の時の呼び名は「*吉」「*七」等で、下位の番頭と同じである)。そして、番頭を任され(大店では“小番頭”“中番頭”“大番頭”と分けられる時があり、呼び名は「*助」である)。30歳前後には暖簾分けされ自分の商店を持つことが許される。
[編集] 報酬
給与は無く、衣食住の保障が給与の代わりであった。お盆・暮れの年2回、小遣いや実家への手土産、新しい衣服(お仕着せ)などが支給されることがあった[1]。店主としては商売の教育を施して飯を食わせるのであるから無給は当然であり、丁稚となる者にとっても商売の経験と将来的な独立への布石、また食い詰めた貧家からの丁稚であれば少なくとも飯が食えるというメリットはあった。この報酬体系から丁稚は、しばしば丁稚奉公と表される。
[編集] 丁稚制度の消滅
第二次世界大戦後、GHQの指令により労働法規が整備されたことや、義務教育の年限が9年に延長された結果、「長期間の住み込みによる衣食住以外は無給に近い労働」という丁稚奉公のスタイルを維持することが困難となった。丁稚を採用していた企業は近代的な契約による従業員に衣替えさせた。これにより、200年以上の歴史を持っていた丁稚制度は消滅した。これは、家族経営を主体としていた商店が、近代的企業へと変わっていくのと軌を一にしていた。
その後は花登筐の作品や、そのパロディーとしての吉本新喜劇のコメディー(「あっちこっち丁稚」など)を通じて伝えられる存在となった。
また、商店街などが地域活性化と職業への理解を深めてもらうため、中高生に業務を体験してもらうイベントを「丁稚体験」と呼ぶケースがある。(大阪など)
ゲームソフトメーカーのコンパイル(現在は消滅)ではかつて新入社員に「丁稚」と書かれたトレーナーを着用させて問題になった。
[編集] 参考
花登筐の「あかんたれ」に詳しく記載されており、ここは大店で、主人(だんさん):安之助、若主人(わかだんさん):安造、分家(ごぶんけはん、旦那の弟など):治三郎、大番頭(おおばんとうはん):孝助、中番頭(なかばんとうはん):直助、小番頭(こばんとうはん):豆七、手代:捨吉、丁稚:秀松、とある。これはあくまで参考であるが、花登の考証であるから、ほぼ間違いないであろう。
[編集] その他
「でっちあげ」という言葉は、丁稚とは関係がない。(「捏」の漢音「テツ」が語源)