三上景文
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三上 景文(みかみ かげふみ、寛政元年8月28日(1789年10月16日) - (没年月日不明))は、江戸時代の官人。本姓は秦宿禰。身分は地下人で、北面武士に所属した。確認されている最後の官位は従四位下大和守。地下家伝の編者である。
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[編集] 生い立ち
寛政元年8月28日(旧暦)、有栖川宮家の諸大夫・粟津義清の次男として誕生し、幼名を武三郎と称した。享和2年5月26日(1802年6月25日)、北面武士の三上景宏と、武家で言うところの末期養子となる形で縁組する。その3日後に景宏は死去し、景文は12歳で三上家を相続する。
[編集] 事跡
景文は中年を過ぎた頃、それまで誰も手をつけることのなかった地下諸家の系譜編纂を決意。資料を収集して天保13年9月(1842年10月)に執筆を開始し、1年半後の天保15年5月1日(1844年6月16日)に、京都の地下諸家の歴代当主の名前、父母の名、生没年月日、叙位任官の履歴等を網羅した「地下家伝」を完成させた。
また、京都の著名人の人名録である「平安人物誌」には、景文は衣棚下長者町(現・京都市上京区)に住み、衣紋道に通じた人物として記載されている。
[編集] 晩年
景文は妻の吉川某との間に一男六女を儲けたが、地下家伝を著してからの消息は詳らかでなく、その没年月日や墓所は不明である。ただし、昭和時代に正宗敦夫が出版した地下家伝の改訂版によれば、嘉永2年(1849年)の景文の記録があるので、少なくとも死去したのはそれよりも後と推定されるが、慶應年間に至ると、景文の官名であった大和守は兄・義毅の婿に当たる山本随(後に恭随に改名、典薬寮医師)が受け継いでいるので、あるいはその時点ではすでに故人であった可能性もある。
[編集] 親族
- 兄弟