北面武士
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北面武士(ほくめんのぶし)とは、上皇に仕え、身辺の警衛あるいは御幸に供奉した武士集団のこと。
11世紀末白河上皇が院の護衛のために、儀礼的存在の御随身所とは違い武力を持つ近衛団的存在として設置した。院の御所の北面を詰所としていたので、この名がついた。当初は藤原北家に対抗するために結成された。藤原氏の本拠地が院の北側にあったため、北面に配置されたとされている。後に寺院の強訴や僧兵に対抗する時も効果を発揮した(ただし、後白河法皇逝去の際に葬儀に参列した北面の中には僧侶(僧兵か否かは不明)なども含まれており、構成員の全てが武士・侍階級であったわけではない)。
構成には主として近畿周辺の在地武士や受領武士などがあたり、平正盛・忠盛親子も属していた。このことが後の平家台頭のきっかけとなった。
最大の時には日本最大の武装集団になり、律令制の正規軍に代わり軍事的な役割を果たした。1118年の延暦寺大衆を鎮圧したときの勢力は1000人程の軍勢だったと言われている。
後鳥羽上皇時代に、西面武士も設立された。承久の乱では西面武士とともに戦闘に加わり、乱の後西面武士は廃止されたが、北面武士は残された。その後、徐々にその規模は縮小し単なる御所の警備隊と化し、さらに室町時代・織豊時代・江戸時代と変遷するにしたがって警備隊の機能すら失い、近世で最も御所に兵火が迫った禁門の変においても全く登場する事がなかったが、家柄を表す名目として明治維新まで存続した。
北面武士の存在は、それまで貴族だけが握っていた政治に武士を接近させ結びつけていく入り口のような形であったといえる。
北面武士の出身者としては、他に西行などがいる。