三浦義村
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三浦 義村(みうら よしむら 生年不詳 - 延応元年12月5日(1239年12月31日))は鎌倉時代初期の武将。本姓は平、平義村(たいら・の・よしむら)。父は三浦義澄、母は伊東祐親の娘。子に三浦泰村、三浦光村。
[編集] 経歴
1180年、源頼朝の挙兵に父・義澄とともに参加する。三浦氏は平家打倒に大きな役割を果たし、有力御家人として鎌倉幕府で重要な地位を占めることになる。1190年に右兵衛尉に任官される。1199年の梶原景時弾劾追放事件では中心的役割を果たし、1205年の畠山重忠討伐にも参加。
1213年には三浦氏の一族で侍所別当の和田義盛と北条氏打倒で結ぶが、これを裏切って北条義時に義盛の挙兵を告げた(義盛は敗れて和田氏は滅ぶ。(和田合戦))。大きな策謀には関わっており、幕政での地位を向上させることに腐心している。1218年、侍所所司に就任した。
1219年1月27日、征夷大将軍の源実朝が義村の妻が乳母をしていた公暁(源頼家の子)に暗殺される。公暁は義村に対し書状を持った使いをだし将軍就任を狙ったが返事がないため、義村宅に行こうと裏山に登ったところで義村の討手に遭遇し振り払って、義村宅の門前まで行ったところで殺される。その功もあり、同年駿河国守に任官。
1221年の承久の乱では、後鳥羽上皇の近臣だった弟の三浦胤義から決起をうながす使者を送られるが、義村は直ちにこれを義時に知らせた。義村は幕府軍の大将のひとりとして東海道をのぼり、京方を破って上洛。胤義は敗死した。
1224年、北条義時が病死すると、後家の伊賀氏は執権に実子の北条政村を、将軍に女婿の一条実雅を立てようとした。またもや三浦義村はこの陰謀に関わるが、北条政子の勧めで泰時の執権就任を支持する。
1225年、評定衆が設置されると、義村はこれに就任した。御成敗式目の制定にも署名した。1239年12月31日(延応元年12月5日)死去。